現代詩手帖 2008年 03月号 [雑誌]思潮社このアイテムの詳細を見る |
高橋睦朗「奇妙な日」(「現代詩手帖」2008年03月号)
「奇妙な日」というタイトルに引きずられていうわけではないが、奇妙な詩である。そして、この奇妙さというのは、実は作品のなかにあるのではなく、私のなかにある。書かれていることばに奇妙なところはない。それでも私は奇妙に感じる。
おかあさん
ぼく 七十歳になりました
十六年前 七十八歳で亡くなった
あなたは いまも七十八歳
ぼくと たった八歳ちがい
おかあさん というより
おねえさん と呼ぶほうが
しっくり来ます
来年は七歳
再来年は 六歳
八年後には 同いどし
九年後には ぼくの方が年上に
その後は あなたはどんどん若く
おねえさんではなく 妹
そうのち 娘になってしまう
年齢って つくづく奇妙ですね
死んだ母のことを書いている。その高橋の年齢の差。そのことに注目して、思いついたことを書いている。こういうことを思うのは別に高橋だけではないかもしれない。多くの人がおなじことを考えるだろう。
私が感じる奇妙さは、そのことと関係がある。
高橋は、こんなふうにだれもが感じることをだれもが感じるようなことばで書く詩人だっただろうか。--ことばがあまりに簡単に動いて行ってしまっているので、高橋の詩という印象がしない。高橋らしくない--というのが、私の感じる奇妙さである。
特に、
年齢って つくづく奇妙ですね
という1行。こんなふうに書いてしまわないで、こういう感想を読者が自然に抱くようにするのが詩なのではないか、と私は、思ってしまうのである。「つくづく奇妙ですね」の「つくづく」という自分の感情の動きをそのまま他人に押し売りするような、こんな奇妙な作品を高橋は書いてきただろうか。
そして、奇妙と書きながら、私はこの安易な(?)ともいえるような感情の打ち明けになんだかこころがひかれるのである。(だからこそ、こうして感想を書いている。)
安易に打ち明けることのなかには、母との距離を縮めようとする意図が、母との距離をちぢめたいという愛、一体になりたいという思いがこもっている、と感じて、こころがひかれるのである。
この詩のなかには、私が絶対につかわないことばがある。「十六年前 七十八歳で亡くなった」の「亡くなった」。「おかあさん」(母)に対して、私は、「亡くなった」とは絶対に書かない。「死んだ」ということばしか出てこない。
実は、この文章を書きはじめてすぐ、私は「死んだ母のことを書いている」と文章を何度も書き直した。高橋のつかっていることばにならって「亡くなった母のことを書いている」と書き直し、どうも自分の文章じゃないと感じ、「死んだ母のことを書いている」「亡くなった母のことをかいている」「死んだおかあさんのことをかいている」「亡くなったおかあさんのことを書いている」「死んだ母のことを書いている」という感じで、あれこれ悩んでしまった。
普通は、高橋の母は私の母ではないから、「亡くなった母のことを書いている」と書くべきなのだろうけれど、何か奇妙なのである。私は、精神がむずむずするのを感じてしまうのである。「亡くなった」と書く時、母との距離がひろがってしまう。その感じが、とてもいやなのである。母の死というものは、私には「距離」のあるものではない。だから、他人が書いていることであっても、そこに「亡くなった」というようなことばが入り込んでいる時は、むずむずしてしまう。
しかし、母という存在がほんとうに「距離」をもっているときもあるのだ。高橋には「距離」があったのだ。
高橋は、その距離について書いている。距離を感じる高橋自身について書いている。距離がある。そしてそのことをよいことだとは思っていない。なんとかして距離のないもにしたいと考えている。そのための念押しのようなことば、自分自身を納得させるためのことばが「つくづく奇妙ですね」の「つくづく」なのだと思う。実感しているというより、「つくづく」を頼りに実感したいと感じ、ことばとこころを動かしている。そんな感じがするのだ。
高橋は、この1連のあと、ことばを、母と高橋の「距離」に向けて動かしていく。「つくづく」と念押ししたことばを頼るように、正直になろうとしている。葬儀の様子、古いしゃんしのこと、死に関する記憶。--心中未遂のこと。「距離」はその事件に関連している。いわば「おどろおどろしいもの」に関連している。
「おどろおどろしい」のでではあるけれど、実は、それは他人から見て「おどろおどろしい」だけであって、当の高橋にとっては「おどろおどろしい」ものではない。たったひとつの現実である。それは「距離」ではなくて、ほんとうは密着なのだ。一体になっている部分なのだ。「距離」と「密着」は一体となったもの、ひとつのものである。
その世界へ分け入り、そこからふたたび出てくるためには「つくづく」というような、自分自身に言い聞かせることばも必要なのだ。だれでもがつかうような平易なことば、なるべく「おどろおどろしい」と結びつかないことば、強い印象をのこさないことばが必要なのだ。簡潔で、さらりとしたことばが必要なのだ。ありふれたものであることが必要なのだ。「おどろおどろしさ」もありふれたもの、たとえば「腐爛死体」というような「流通言語」にかぎられるのである。
高橋は余分なことばを排除しながら、「距離」を少しずつ縮めていく。そうして「つくづく」に通じる感情の押し売り(?)ともいうべき、ありふれた、しかしありふれているからこそ、だれもが見逃してしまいそうなひとつのことばに到達する。「愛」。しかし、この「愛」ということばはない。「大好きな」「おかあさん」。
高橋は「死んだ母」について書いたのではない。「大好きなおかあさん」について書いた。書くことで「死んだ母」を「大好きなおかあさん」に高めた。だれにでも共通する幸福の一瞬にたどりついた。--その世界が、ありふれている(と思われている)だけに、奇妙なという印象、高橋がなぜ、いま、こんな作品をという思いがあるにはあるのだが、この奇妙さがなぜかこころを打つ。
読んでいて、最後の二行は思わず、声になって出てしまう。声を誘い出すためには、やはりことばは平易・簡潔なものである必要あったのだとも思う。
その最後の部分。
いま ぼくがしなければならないのは
写真の前の奇妙な老人を殺すこと
みごと殺しおおせた暁には
その時こそ 言えますね
ぼく 一歳になりました
もう 二歳にも 三歳にも
もちろん七十歳にも なりません
安心して ずっと二十五歳のままの
若い母親でいてくださいね
ぼくの大好きな たったひとりの
おかあさん