詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大橋政人「春」

2008-02-22 09:28:23 | 詩(雑誌・同人誌)
 大橋政人「春」(「独合点」92、2008年02月08日発行)
 書き出しが魅力的な詩と終わり方が魅力的な詩がある。大橋の「春」は終わりがとても魅力的だ。と書いても、たぶん最後の4行だけ書いてもその魅力は伝わりにくいかもしれない。全行引用する。

春には毎年
先ばかり越されている

どっちから来るのか
わかっていれば
遠くまで出迎えに行くことだってできる

あしたとか
あさってとか
その次の午前九時とか
いつと行ってくれれば
心の準備の一つや二つ
あろうというものだが

春は
いつだって断りなしに
気がついたら
もうここに来ている

気がついたときには
すっかり春に囲まれていて
万事休す

降参の格好で
両手を挙げてフラフラ
あっちへ後ずさり
こっちへ後ずさり

 最後が魅力的なのは、実は、終わっていないからだと気がつく。変ないい方になるが、「結論」がない。春に先を越されて、それでどうなった? どうもならない。何もかわらないことがあるのだ。
 ことばは書いてしまうと、どうしてもその書いた先へと動いて行ってしまう。動いて行って、その結果として、自分が自分でなくなってしまう。そこに書くことの「意味」があるのだと思うけれど、そういう書くこと(ことばの運動)に逆らって(?)、同じところにとどまりつづけている。どこへも行かない。何にもならない。これはなかなか難しいことである。
 「先を越される」と、ひとはどうしても追いつきたくなる。追いつかなくても、すくなくともそれ以上引き離されないようにしたがるものである。大橋も、そうなふうに一応は動いてはみせている。「どっちから来るのか/わかっていれば/遠くまで出迎えに行くことだってできる」というような、どうでもいいことというか、ことばの上でだけでならできるが、実際はできるはずがないことを平気で書いていたりする。
 たぶん、このことばではできるけれど実際にはできないこと--その「むだ」のなかで時間をすごすということが、大橋の詩の魅力であり、そういう「むだ」のなかの行為だからこそ、終わってはいけないのだ。「むだ」を終わらせない。「むだ」でありつづける。そこに、なんといっていいのか私にはよくわからないのだが、人間の生存のひとつの重要な役割があるのだ。何か役に立つことをするというのは人間にとって大切なことであるけれど、そうではなく役に立つことをしない、無為にすごす、時間をむだづかいする--そういうことのなかに人間のいのちを救う何かがあるのだ。
 どんなふうにして人間は「むだ」を生き、その「むだ」が気持ちいいかを、大橋は詩のなかで実践している。

両手を挙げてフラフラ
あっちへ後ずさり
こっちへ後ずさり

 「あっち」へ後ずさりしづけるのではない。「こっち」へ後ずさりしつづけるのでもない。どちらかへ限定しない。「後ずさり」の「後」がけっして「前」へ行かないことを静かに決意している「ずさり」という消極的(?)な態度が、ここでは積極的に採用されている。「むだ」を選ぶことの美しさ、この連の前に書かれていることの美しさは、この「後ずさり」によって輝いている。
 まだ春というには早いけれど、春になったら「後ずさり」してみたい、という気持ちになる楽しい詩だ。




大橋はこんな詩も書いている。


十秒間の友だち―大橋政人詩集
大橋 政人
大日本図書

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