現代詩手帖 2008年 02月号 [雑誌]思潮社このアイテムの詳細を見る |
井坂洋子「裏門の花」(「現代詩手帖」2008年02月号)
井坂洋子の詩にはいつも不透明なものがある。不透明なものを不透明なまま持ちこたえている。たとえば「裏門」の冒頭。
三年ぶりにユッカランが咲いたと、もがみさんが喋っていた。見に行ってごらんなさい、裏庭の植え込みですよ。
「もがみさん」が不透明である。「もがみさん」と言われても読者には(少なくとも私には)さっぱりわからない。詩を読み進んで行くと、いくらかわかるようになるが、それでもやっぱりわかりはしない。「ユッカラン」は「蘭」の一種かな? そう見当をつけて調べてみることはできるが、「もがみさん」は調べようがない。「もがみさん」は井坂の、あるいはこの詩の話者である「あたし」の知り合いであることはわかる。名前を知っているのだから。しかし、しっているひとだけど、その名前を漢字で書いてはいない。漢字でどう書くか知らないのか。知っているけれど漢字では書きたくないのか。「音」だけで識別(区別)することで、漢字で書くことのできるひととは、ちょっと違った関係を「あたし」とのあいだに持っているということかもしれない。--こうしたことは、すぜて、私の想像であり、けっきょく不透明である。「もがみさん」って、誰?
そして、この不透明さは、私に、とても不思議な印象を呼び起こす。「もがみさん」が誰であるかわからないので、私は意識の深いところで「もがみさん」を探し続けるのである。片時も忘れることができないのである。「もがみさん」が誰であるかわかれば、そのひとを「もがみさん」としてではなく、たとえば「寮母」という職業にとじこめてしまう。その結果、「もがみさん」であることを忘れ、「寮母」という職業で抽象化した状態でことばを読み進めることになる。抽象というのは透明なものである。そして、透明なものの方が「論理」(ストーリー)を追いやすい。個性によって、現実がゆがめられることがないからである。
井坂は、彼女のことばを「抽象化」から救い出すために「もがみさん」という固有名詞を詩に取り込むのである。「抽象」は詩の大敵であることを井坂は知っているのである。抽象化してしまったらことばは詩ではなくなる。抽象化しないものをことばにしつづけるのである。
この文体は抽象的なものを描くとき、次のようにかわる。
あたしは薄い布をかぶり、厚手のブランケットのような記憶が何かないかと探るのだが、張り渡された天井板のように奥行きがない。あれが落ちてきてもあたしは悲鳴をあげないだろう。ひとつだけあるとすれば、小さい頃、ミサのあとに貰うジャムつきのコッペパン。惜しみながらちびちび食べていると、そう高くもない鼻の先が視界にぼんやり入ってきて、そんなふうに自分を愛していた。
「愛」というものが「ちびちび」という描写や「高くもない鼻先」という肉体へとかえって行く。純粋からはとおいところ。不透明なところへかえって行く。そして、それが不透明であることによって、読者の(少なくとも、私の)、不透明な何かと重なり合う。そのときに、不思議な変化が起きるのである。井坂の書く不透明なものが私の中の不透明なものに重なると、それがそのまま実感として肉体のなかから立ち上がってくるのである。私はミサも知らないし、ミサのあとにコッペパンを食べたことももちろんないのだが、何かを肉体になじませるように一種無心のような状態で食べている内に自分の肉体に気がつく--それが愛だと、なぜか自分自身で感じてしまうのである。井坂のことばを読んでいるのに、井坂のことばという印象ではなく、普遍的なものに感じられる。普遍的なものが、抽象化されずに、そのまま肉体と肉体をつないでいるという感じがしてくるのである。
私の感じた「愛」というものは、井坂が書いている「愛」とは違っているかもしれない。いや、かもしれないではなく、絶対に違っているのだ。だが、違っているからこそ重なり会える。違いを超えて、普遍を求めるようにして重なりあえる。重なりながら、そこからちょっとはみ出して行くことができる。このはみ出して行くという感じがあるから、たぶん詩なのだ。文学なのだ。
重なり合わない。透明な、抽象的な何かによって、私の肉体(? 記憶? ことば? 精神?)が洗い落とされ、しばられる。絞り込まれる。これでは文学ではなく、いわば「教育」だ。私は解放されず、逆に「定義」されるだけなのだ。
井坂のことばは、不透明を持ち込むことで、「定義」を拒否し、「定義」の存在しないところ、「定義」をはみだしてゆくことろに詩をうごめかせるのだと言えるかもしれない。