詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井坂洋子「裏門の花」

2008-02-01 11:39:25 | 詩(雑誌・同人誌)
現代詩手帖 2008年 02月号 [雑誌]

思潮社

このアイテムの詳細を見る


 井坂洋子「裏門の花」(「現代詩手帖」2008年02月号)
 井坂洋子の詩にはいつも不透明なものがある。不透明なものを不透明なまま持ちこたえている。たとえば「裏門」の冒頭。

三年ぶりにユッカランが咲いたと、もがみさんが喋っていた。見に行ってごらんなさい、裏庭の植え込みですよ。

 「もがみさん」が不透明である。「もがみさん」と言われても読者には(少なくとも私には)さっぱりわからない。詩を読み進んで行くと、いくらかわかるようになるが、それでもやっぱりわかりはしない。「ユッカラン」は「蘭」の一種かな? そう見当をつけて調べてみることはできるが、「もがみさん」は調べようがない。「もがみさん」は井坂の、あるいはこの詩の話者である「あたし」の知り合いであることはわかる。名前を知っているのだから。しかし、しっているひとだけど、その名前を漢字で書いてはいない。漢字でどう書くか知らないのか。知っているけれど漢字では書きたくないのか。「音」だけで識別(区別)することで、漢字で書くことのできるひととは、ちょっと違った関係を「あたし」とのあいだに持っているということかもしれない。--こうしたことは、すぜて、私の想像であり、けっきょく不透明である。「もがみさん」って、誰?
 そして、この不透明さは、私に、とても不思議な印象を呼び起こす。「もがみさん」が誰であるかわからないので、私は意識の深いところで「もがみさん」を探し続けるのである。片時も忘れることができないのである。「もがみさん」が誰であるかわかれば、そのひとを「もがみさん」としてではなく、たとえば「寮母」という職業にとじこめてしまう。その結果、「もがみさん」であることを忘れ、「寮母」という職業で抽象化した状態でことばを読み進めることになる。抽象というのは透明なものである。そして、透明なものの方が「論理」(ストーリー)を追いやすい。個性によって、現実がゆがめられることがないからである。
 井坂は、彼女のことばを「抽象化」から救い出すために「もがみさん」という固有名詞を詩に取り込むのである。「抽象」は詩の大敵であることを井坂は知っているのである。抽象化してしまったらことばは詩ではなくなる。抽象化しないものをことばにしつづけるのである。
 この文体は抽象的なものを描くとき、次のようにかわる。

あたしは薄い布をかぶり、厚手のブランケットのような記憶が何かないかと探るのだが、張り渡された天井板のように奥行きがない。あれが落ちてきてもあたしは悲鳴をあげないだろう。ひとつだけあるとすれば、小さい頃、ミサのあとに貰うジャムつきのコッペパン。惜しみながらちびちび食べていると、そう高くもない鼻の先が視界にぼんやり入ってきて、そんなふうに自分を愛していた。

 「愛」というものが「ちびちび」という描写や「高くもない鼻先」という肉体へとかえって行く。純粋からはとおいところ。不透明なところへかえって行く。そして、それが不透明であることによって、読者の(少なくとも、私の)、不透明な何かと重なり合う。そのときに、不思議な変化が起きるのである。井坂の書く不透明なものが私の中の不透明なものに重なると、それがそのまま実感として肉体のなかから立ち上がってくるのである。私はミサも知らないし、ミサのあとにコッペパンを食べたことももちろんないのだが、何かを肉体になじませるように一種無心のような状態で食べている内に自分の肉体に気がつく--それが愛だと、なぜか自分自身で感じてしまうのである。井坂のことばを読んでいるのに、井坂のことばという印象ではなく、普遍的なものに感じられる。普遍的なものが、抽象化されずに、そのまま肉体と肉体をつないでいるという感じがしてくるのである。
 私の感じた「愛」というものは、井坂が書いている「愛」とは違っているかもしれない。いや、かもしれないではなく、絶対に違っているのだ。だが、違っているからこそ重なり会える。違いを超えて、普遍を求めるようにして重なりあえる。重なりながら、そこからちょっとはみ出して行くことができる。このはみ出して行くという感じがあるから、たぶん詩なのだ。文学なのだ。
 重なり合わない。透明な、抽象的な何かによって、私の肉体(? 記憶? ことば? 精神?)が洗い落とされ、しばられる。絞り込まれる。これでは文学ではなく、いわば「教育」だ。私は解放されず、逆に「定義」されるだけなのだ。
 井坂のことばは、不透明を持ち込むことで、「定義」を拒否し、「定義」の存在しないところ、「定義」をはみだしてゆくことろに詩をうごめかせるのだと言えるかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青山七恵「やさしいため息」

2008-02-01 01:43:32 | その他(音楽、小説etc)
文藝 2008年 02月号 [雑誌]

河出書房新社

このアイテムの詳細を見る

 青山七恵「やさしいため息」(「文芸」2008年春号、2008年02月01日発行)
 数年ぶりに会った弟(風太)が姉の生活を日記につづるという、ありえない世界を描いている。ありえない世界なのに、まるで実際にそんなことがあるかのように描かれている。文体の力である。ありふれた日常をありふれたことばで描写しつづけることで、このありえないできごとをありふれりものにかえてしまうという不思議な不思議な小説である。
 おもしろいのは弟によって記録される生活(日記)がとてもつまらないので、姉が嘘をつき、その嘘にあわせて現実がかわっていくという点なのだが、ここでも青山の文体の力が発揮されている。そこにかかれていることは嘘なのだが(小説だから、もちろん嘘に決まっているのだが)、文体に力があるので、その嘘を受け入れてしまう。嘘のなかに、人間の不思議さを見てしまうのである。
 その構造を象徴するような描写が、小説がはじまってすぐにある。いわば「種明かし」のようなものなのだが、この最初から種明かしをしている点も、この小説にいっしゅの安心感を与えている。これも青山の文体の力である。
 その部分。

 旅行先で突然姿を消して、必死で捜し回るわたしたちをバードウォッチング用に持ってきた望遠鏡で観察して、見つかれば「お腹が痛かったから」と大泣きするような弟だ。その泣き方がいかにも殊勝で哀れを誘うので、嘘かもしれない、いや、おおよそ嘘泣きなんだけれど、と思いつつ、ついわたしたちは許してしまう。困ったように目を合わせる両親たちに、わたしはいつもはがゆい思いをしていた。

 「弟」を青山、「嘘」を「小説・やさしいため息」、両親を「批評家」、「わたし」を読者に置き換えると、この小説の全体がうわーっと浮かんでくる。「はがゆい思い」は、ちょっとそのまま「はがゆい」には置き換えられないかもしれないが。
 「はがゆさ」を、しかし、どう批判していいかわからない、わかっているのに批判できないというふうにとらえてみると、小説と作者、批評家、読者の関係になるだろうと思う。
 もう一か所。これもほとんど小説の書き出しの部分である。

わたしたち家族は、夜のあいだに小雨に濡れた服を着替えもせず、無事見つかった風太を眺めて、訳もわからず感動していた。

 「訳もわからず感動していた。」これは、批評家と読者の、「弟」(作者+小説)の感想にもなるだろう。
 「訳がわからない」のは、それを(青山の小説を)的確に批評する方法が確立されていないからである。それは逆に言えば、青山の小説が、小説として確立された文体とは違った文体、新しい文体で書かれている、という意味にもなる。
 青山は、まったく新しい文体を小説に持ち込んでいるのである。これはたいへんなことである。一種の「革命」である。小説の革命がはじまっている。
 最後に、青山は、小説というものをもう一度「種明かし」している。なぜひとは小説を読むのか。嘘とわかっていて、その嘘にのめりこむのか、ということも説明している。

 駅で、部屋で、街の中で、わたしはある声を探している。風太のノートに書かれた文字のように、その声がわたしの生活を語ってくれることを待っている。

 小説を読む。それは作者が(青山が)、「わたし」(読者)の生活を語ってくれるからである。しかもその生活は「わたし」(読者)のものであるにもかかわらず、青山が語ってくれるまでは気がつかなかった生活である。青山の小説を読むことで、わたしたち読者はわたしたちの、これまでことばにならなかった生活を読む。「わたし」を発見する。
 芥川賞を受賞した「ひとり日和」もおもしろかったが、この小説もおもしろい。傑作である。青山の小説からは目が離せない。



ひとり日和
青山 七恵
河出書房新社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする