詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

米田憲三「荒野を抱く」

2008-02-24 10:02:49 | その他(音楽、小説etc)
 米田憲三「荒野を抱く」(『合同歌集 第一集 耀』原型富山歌人会、2008年01月20日発行)

 修司悼むこえいつまでも満ちており荒野と呼べるものを抱けば

 「修司」とは寺山修司である。
 この歌に、私はとても驚いた。声の響きがとても若い。奇妙な言い方かもしれないが、この歌を高校生が書いたと誰かが言ったなら、私はそれを信じたと思う。ところが、私は、米田の年齢(正確な年齢ではないが)を知っている。米田が高校生ではないことを知っている。実は、私が高校1年生だった時、米田は国語の先生だった。それなのに、この歌の響き、声を、まるで高校生が書いたものであるかのように、どうしても感じてしまう。高校生が言い過ぎというなら、大学生と言い換えてもいいが、どんなに想像しても今の米田とは重ならない。(米田とは高校1年のとき以来会ったことがないので、今の米田を私は知らないけれど。)とても若い。信じられないくらい若い。
 米田は、この作品をいつ書いたのだろうか。
 私の記憶では寺山は1980年代に亡くなっている。たとえその直後に書いたものだとしても、80年代には米田はすでに40代を超えている。(50代かもしれない。)高校生では、もちろん、ない。最近書いたものだとすれば、なおのこと、米田の年齢と大きくかけちがった若さである。
 どうしてこんなに若い響きが歌の中にあるのだろうか。

若き修司に逢いしは居酒屋「古今」にて場を設けくれし繁次も今亡く

朴訥な語りのなかに溢れいし刃のごとき修司のことば

 米田は寺山と会っている。一連の歌といっしょに掲載されている短い文章を読むと、米田は寺山と2度会って、話している。ここに書かれている寺山はだから実際の、生きた寺山である。この実際に会っているという体験、若い時代の体験が、米田の声を若くしている。若い時代に米田を引き戻し、その記憶のなかで、若い時代のことばがそのまま動きだしているかのようだ。
 若い時代のことばの特徴のひとつに、というより、まだ体験していない、実際に感じていないけれど、ことばにすることで体験や感情を先取りするという動きがある。若い時に他人のことばに刺激されるのも、そのことばのなかに自分の体験していないもの、これから体験するかもしれないものの予感を感じ、予感のなかで体験を先取りするということがある。一種の、知らないものを知りたいという欲望の裏返しである。予感のなかで、感情を体験したいという欲望のようなものを、若い時代のことばは、ことばのなかに抱き込んでしまう。

 修司悼むこえいつまでも満ちており荒野と呼べるものを抱けば

 この「荒野」は実際の「荒野」ではない。「荒野と呼べるもの」--それは「象徴」である。象徴、あるいは比喩というものは、その存在が、今、目の前に存在しないことによってはじめて比喩、象徴として成り立つ。実際に荒野を抱くということはできない。だからこそ「荒野を抱く」という比喩が生まれ、「荒野」が「荒野」ではなく、ひとつの象徴にもなる。若い時代は、ことばはいつでも「体験」よりも、「体験」にまみれていない、何か象徴のようなものである。予感のようなものである。ことばを書くことで、そのことばを体験したいと思って書くものである。
 「荒野と呼べるものを抱けば」というけれど、実は、逆なのである。そういうものを抱けば寺山を悼む声が満ちているのではない。寺山を悼むこと、そういう声を発し続けることで、米田は「荒野と呼べるもの」を胸に抱こうとしているのである。「荒野」なにもない野。何もないとは、よごれもない、という意味である。純粋である、という意味でもある。そんなものは、いま、ここにはない。そして、いつだって、どこにだってない。だからこそ、それを抱きたいのである。呼び寄せたいのである。
 --そういう不思議な飛躍、精神の、肉体を超えて動いていく動き、それが、肉体を超えると同時に「時代」(時間)を超えて、若い時代と結びついている。寺山を思い出す時、米田は米田自身の若い時代を思い出し、その米田の若い時代のことばの動きそのものとして、いま、ここで生きている。
 ことばを書くということはことばを生きることなのである。

 ことばを生きる--そのことが米田の歌を若くしている。若い響きにあふれるものにしている。ことばを生きる、というのは、ことばでしか書けないものを生きるということでもある。「荒野と呼べるもの」というロマンチシズム。あるいはセンチメンタリズム。その「若さ」。それは、寺山が生きたことばであり、また、寺山と同時代を生きた米田のことばなのでもある。米田と寺山が「荒野と呼べるもの」ということばのなかでいっしょに生きているのである。
 「寺山の影響」「寺山の亜流」ということではない。それはいっしょに生きるものの、ことばの共鳴なのである。共鳴の美しさが、その美しさのなかで「若い時代」を輝かせる。そういう輝きが一連の歌にある。

垂直の思考といえど酔い痴れて卓上に立たせゆくビール壜

 「垂直の思考」という比喩、それが「卓上に立たせゆくビール壜」と重なり合いながら、精神の動きの象徴となる。学生の、熱い熱いことば、ことばを追いかけることで精神を何かにかえようとする力、自己を超越しようとする力の共鳴。そういうものを、いま、米田は生きている。

貧しき語彙、貧しき心、矩(のり)越えぬ日常を週末のハンガーに吊る

 この歌も同じである。「貧しき語彙」「貧しき心」の「貧しさ」は「経験の貧しさ」(経験をともなわないとこ)を意味する。それは逆説であって、ほんとうは余分な経験にまみれていない、とういことである。(「荒野」の「荒」とおなじ意味である。)経験を抱え込んでいない純粋な語彙、純粋な心(理想)ということでもある。
 「貧しき語彙」「貧しき心」と否定的に書きながら、実は、その否定の向こうにある純粋なものを絶望的に求めている。
 日常に流通していることばではなく、ことば自身のなかにある純粋な存在のあり方、たとえば理想の「荒野」というものが目指されている。そういうものを目指してしまうのが「若さ」の特権である。そういう特権を、米田は、寺山を思い出すことで手に入れている。「週末のハンガーに吊る」という絶対的な、純粋な「敗北」--純粋な敗北などというものは現実にはない。しかし、それをことばとして、ことばの向こう側に求めてしまう。その若さの特権を米田は寺山を思い出すことで手に入れている。

 これはある意味で、寺山論としての短歌かもしれないと思った。



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