詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小池昌代『ババ、バサラ、サラバ』(その2)

2008-02-14 09:14:33 | 詩集
ババ、バサラ、サラバ
小池 昌代
本阿弥書店、2008年01月16日発行

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 1篇、とても不思議な詩がある。不思議というのは、これまで私の意識してこなかった小池がいる、ということである。「歴史」。広島原爆資料館を訪問したときの作品だろうか。小池がこうした作品を書くということは、私は想像していなかった。それが私が不思議に感じた理由である。
 しかし、この「不思議」は5連目ですぐに消える。小池が、あいかわらず、ここにいる。ことばのなかに、小池がいる。最初に感じた不思議を吹き飛ばす強烈な小池が、この作品のなかから立ち上がってくる。

炭の母
真っ黒に焼けただれた炭の母
それはどこから眺めてみても
途中というものの姿だった

 「途中」。このことばに私は衝撃を受ける。そして、その衝撃は、いつも小池の詩に感じる衝撃と同じである。だれもがつかうことば。しかし、小池がつかったとたん、まったく新しくなることば。そういうものが、このことばのなかにある。
 原爆の直撃にあい、炭化した母親。彼女は死んでいる。死は、いわば人間の最後である。完結である。そこから先はない。しかし、そうした人間を見て、それを「途中」という状態に引き戻す。--ここに小池のことばの力が凝縮している。
 突然の、不可抗力の死。それは、たとえば「母」にはやり残したことがある、だから「途中」だ、というのではない。そういう意味も含まれるだろうけれど、小池がここで書いているのはそういう「精神的」なものではない。
 「途中」ということばに先立ち「眺め」るという動詞がある。そのとき動いているのは「頭」ではなく、肉体、肉眼である。肉眼が「途中」ということばを、流通することばの奥底から引っ張り上げてくるのである。「姿」ということばとともに。「途中の姿」。それは、肉眼が見たものなのだ。「頭」で考えたものではなく、肉眼が、小池の肉体がとらえた「事実」なのだ。
 この「事実」がことばを重ねることで「真実」になる。

生きていることは そのように
いつも途中のことなのだから
そして死は
途中の、いきなりの、截断なのだから

 稚拙に(?)繰り返される「途中」。小池は、小池自身で「途中」ということばをすくい上げながら、そのことばにとまどっている。何がいいたいのだろう。肉眼は何かをつかんできた。しかし、その何かはことばにならない。ことばにならずに、抵抗している。ことばにされてたまるか、と抵抗している。それは、原爆投下によって死んで行った「母」の抵抗かもしれない。「私を見て、この女は何か言おうとしている。ことばにされてたまるもんか」と「母」が抵抗しているようにも感じられる。まだ、誰にも触れられていないものが、語られていないものが、そこで抵抗しているのである。
 この強烈な抵抗にあいながら、小池はことばを探す。まさぐる。そのときの、肉体のうごめきが、「途中」が繰り返される連のなかに凝縮している。
 小池は、ここからむりやり動いてゆく。なんとしても「途中」を明確にしようと、うごめく。つづく2連は強烈である。

終わりというものはあるのかしら
かたちをまとい この世に一度でも現れたものにとって

死んだ、けれど
死んでいない

 「かたちをまとい この世に一度でも現れたもの」というのは、具体的には、小池が見た「母」なのだが、同時にそれは深いところで小池自身のことばをも指し示している。「途中」ということば--「途中」ということばになってこの世にあらわれたもの、それは「終わり」というものを手に入れることができない。
 常に動いてゆく。動き続けるしかない。

死んだ、けれど
死んでいない

 このことばを発したときから、小池は「母」となって生きはじめる。どう生きていいかわからない生を生きはじめる。「途中」を引き継ぐのではない。「途中」として「生まれる」のである。
 もちろん、これは簡単なことではない。
 「途中」として「生まれ」なければならない、ということを小池はつかみとるが、「途中」として「生まれる」ことはできない。
 この詩が感動的なのは、そのできないことを、できない、と明確に書いてあるからである。「途中」というものに出会った。そこで死について考えた。何かを感じた。でも、それは「死んだ、けれど/死んでいない」というような矛盾の形でしかいえないものなのだ。それも長々しく書いたために矛盾してしまうようなもの(論理の衰弱による矛盾ではなく)、最小限のことばのなかに出現してくる矛盾である。

燃え上がっている眼球だけが
それらをまるごと記憶しています
炭の母は わたし
炭の赤ん坊も
二〇〇五年
だからわたしに
まだ現代は始まっていません

 小池は「炭の母は わたし」というところまでたどりついた。しかし、それはやはり「途中」なのだ。生まれる「途中」なのだ。「わたしに/まだ現代は始まっていません」というしかない「途中」なのだ。あるいは、小池はそんな具合にして「途中」そのものになるのかもしれない。「途中」として「生まれる」のかもしれない。いや、「途中」として「生まれた」のである。--そして、「途中」として「生まれ」ながら、それでもなお「現代は始まっていません」というしかないのはなぜか。永遠に「途中」だからである。
 小池の初期の詩集に「永遠に来ないバス」という作品があるが、そんなふうに永遠に「途中」であることが小池の「思想」なのである。永遠に「途中」でありつづけ、その「途中」を小池自身の肉体で体験し、そこからことばが動きはじめるのを待つのである。始まらない何かを、それでも始まると信じて待つのである。

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