詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リドリー・スコット監督「アメリカン・ギャングスター」

2008-02-09 08:46:20 | 映画
監督 リドリー・スコット 出演 ラッセル・クロウ、デンゼル・ワシントン

 1970年代のアメリカの感じが懐かしい感じで表現されている。まだ個人が個人として生きていた時代というものが。
 ラッセル・クロウ(刑事)もデンゼル・ワシントン(ギャング)も組織に属している。一方は警察の中の麻薬取り締まりチームのトップ(と言っていいだろう)。一方は麻薬組織のトップ。このふたりはトップであり、組織をかかえているのだが、この組織自体が、他の巨大組織のなかにあっては、やはり「個」なのである。組織さえも「個」であった時代があるのだ。「個」が存在するから、巨大組織を再構築できる。そういう「夢」がここには折り込まれている。
 監督の描きたいものはとてもよくわかる。70年代をまるごとスクリーンに再現する。なつかしさ--ひとのぬくもり、ひとが個人として存在するとき生まれるなつかしさ。それを体現するふたりの主役もいい感じである。
 ところが映画自体はたいへんな欠点をかかえていて、盛り上がらない。
 ふたりは、互いに相手を知らない。デンゼル・ワシントンの方はもともと地下組織のトップであり、身を隠している。警察にリストアップされていない。その悪役をラッセル・クロウが捜し当て、追い詰めるというのだから、ふたりが出合うシーンというのは非常にかぎられている。デンゼル・ワシントンはラッセル・クロウが自分を追い詰めている相手だとはまったく知らない。ラッセル・クロウが自分を追いかけていることに気がついていない。
 ドラマはいつでもひととひととの出合いからはじまる。出合いがないシーンの連続、出合うことで互いが変わっていくというシーンがないかぎり、ドラマは盛り上がらない。これは最初からわかっていることでもある。
 だからこそ、リドリー・スコットは、ふたりのシーン、ふたりが属する世界(警察、家族、ファミリー)を交互に描く。ふたりの家庭の問題(夫婦間、親子間、兄弟間)を重ね合わせるようにして次々にからませる。これは新手の群像劇でもあるのだ。アルトマンがやったような、群像劇、群像をとおしての70年代の再現なのだ。--そういう手法が、途中から完全に見えてしまう。なんとかして、ドラマを盛り上げようとしていることもわかる。
 しかし、こういうことはわかってしまうようでは映画は失敗作である。見ていて、途中で、あ、このふたり、結局最後にしか出会わないのだな、と私は思ってしまった。そして実際に、最後しか出会わない。
 とてもつまらない。ストーリーが見えるというよりも、映像が見えてしまうのである。けっして出会うことがなかったふたりだから、そのふたりが出会っても、そこには暴力(肉体の暴力、アクション)はありえない。肉体同士のアクションというのは、相手の肉体を知っていてはじめて成り立つ。デンゼル・ワシントンがラッセル・クロウに対して暴力的に反撃しないのは、デンゼル・ワシントンがラッセル・クロウを、肉体としてまったく知らないからでもある。

 書けば書くほど、つまらない気持ちがつのる。「フレンチ・コネクション」がただただなつかしい。「ゴッドファーザー」がただただなつかしい。と、書けば、この映画を解体してしまうことになるかもしれない。この映画は、実は「フレンチ・コネクション」と「ゴッド・ファーザー」をあわせて1本にしようとした「駄作」なのである。1+1=2にはならない。映画では、1+1=0.5 がせいぜいなのである。
 --あ、ここでも1970年代への郷愁が、ふいに、やってくる。「1」(個)が「1」として輝いていた時代がなつかしくなる。



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