豊原清明「トリを焼いたら目がうるむ」(「火曜日」93、2008年02月29日発行)
豊原の詩があいかわらずおもしろい。豊原の詩ばかり取り上げてもしようがないかなあ、と思って最近は感想を書くのを控えていたが、やはり書かずにはいられない。
「トリを焼いたら目がうるむ」。この詩のタイトルがどこから来たのかわからない。そのわからないところに、まずひかれる。わからない、というのは脈絡がわからない、ということである。それは豊原が私とはまったく別の脈絡を生きているということである。別な脈絡を生きているというのはひとりひとりがそうであるから、ごく自然なことである。そして、そういう違った脈絡を生きていながらも、何かがわかる。「トリを焼いたら目がうるむ」というのがどういう脈絡かでてきたことばなのかわからないが、そこに書かれている「意味」が肉体へ直接働きかけてくる。炭火で焼き鳥を焼いたら、その煙が目にしみて目がうるむ--という単純なことかもしれない。そしてそれがたとえば自分で焼くのではなく焼鳥屋で注文し、その焼く煙が流れてきて目がうるむ--ということかもしれない。そのとき、そこには友達がいるかもしれない。何か話していて、その話と目がうるむことが重なって、「トリを焼いたら目がうるむ」とごまかしたのかもしれない。目がうるんだことの言い訳に……。とういうようなことかもしれない。こういうことは、どうでもいいことなのだが、そんなふうにまったく脈絡がわからなくても、ふいに肉体の奥をつかみとられる瞬間というものがあり、そういう肉体の奥にあるものをふいにつかみとる力が豊原のことばにはいつもひそんでいる、ということがおもしろいのである。
作品にもどる。2連目の書き出し。そこに、豊原のことばの力の特徴がよくでている。
突然はじまり、突然おわる。この1行は他の行とは関連がない。他の行と関連がないぶんだけ、直接、私の肉体に響いてくる。無意識に響いてくる。はっ、とする。たしかに工事の音がクラシックよりも美しく聞こえるかもしれない。そういう瞬間があるかもしれない。工事の音はクラシックの音の動きとは違うがそこにはやはり「美」がひそんでいる。
これらの行には「意味」の脈絡がない。しかし、肉体の脈絡かある。工事の音に美を感じたことのある人間が「白アンくって/ひとりぼっちになった」。この、とんでもない脈絡のなさというか、突然の出会いが、とても美しい。なんだか工事現場でその音楽を聞いて、かえりにどこかで白アンの菓子を買って、それから部屋の中でむしゃむしゃくって、ひとりぼっちになりたい気分にさせられる。
この「ひとりぼっち」は、少しだけ(あるいは強烈に?)詩の後半で「脈絡」を持ちはじめる。「少しだけ(あるいは強烈に?)」と矛盾するようなことを書いたが、それは感じるひとによって違っていて、そしてその違いがあることこそが、豊原の詩を豊かにするからである。ひとによって違うということは、読むたびに違って感じられるということである。つまり、それは、いつでもその瞬間その瞬間であるということでもある。豊原のことばはいつでも脈絡を生きているのではなく、その瞬間瞬間を生きている。だから、おもしろい。読むたびに「一期一会」の世界なのだ。
最後の「うがい」がとてもいい。偽善者になってうがいをしてみたい、そんな気持ちになりませんか? うがいをするために、何か偽善者になる方法はないかなあ、なんて、いま私はどうでもいいことを真剣に考えている。ああ、うがいがしたい。でも単純にうがいするだけでは、だめ。偽善者になって、それからうがいをしなければ、と真剣に考えはじめている。
詩を読む楽しさは、たぶ、こういう役にも立たないことをしてみる(考えてみる)楽しさのなかにあるのだと思う。
*
豊原の詩集を読むなら。
豊原の詩があいかわらずおもしろい。豊原の詩ばかり取り上げてもしようがないかなあ、と思って最近は感想を書くのを控えていたが、やはり書かずにはいられない。
「トリを焼いたら目がうるむ」。この詩のタイトルがどこから来たのかわからない。そのわからないところに、まずひかれる。わからない、というのは脈絡がわからない、ということである。それは豊原が私とはまったく別の脈絡を生きているということである。別な脈絡を生きているというのはひとりひとりがそうであるから、ごく自然なことである。そして、そういう違った脈絡を生きていながらも、何かがわかる。「トリを焼いたら目がうるむ」というのがどういう脈絡かでてきたことばなのかわからないが、そこに書かれている「意味」が肉体へ直接働きかけてくる。炭火で焼き鳥を焼いたら、その煙が目にしみて目がうるむ--という単純なことかもしれない。そしてそれがたとえば自分で焼くのではなく焼鳥屋で注文し、その焼く煙が流れてきて目がうるむ--ということかもしれない。そのとき、そこには友達がいるかもしれない。何か話していて、その話と目がうるむことが重なって、「トリを焼いたら目がうるむ」とごまかしたのかもしれない。目がうるんだことの言い訳に……。とういうようなことかもしれない。こういうことは、どうでもいいことなのだが、そんなふうにまったく脈絡がわからなくても、ふいに肉体の奥をつかみとられる瞬間というものがあり、そういう肉体の奥にあるものをふいにつかみとる力が豊原のことばにはいつもひそんでいる、ということがおもしろいのである。
作品にもどる。2連目の書き出し。そこに、豊原のことばの力の特徴がよくでている。
工事の音はクラシックより美しい
突然はじまり、突然おわる。この1行は他の行とは関連がない。他の行と関連がないぶんだけ、直接、私の肉体に響いてくる。無意識に響いてくる。はっ、とする。たしかに工事の音がクラシックよりも美しく聞こえるかもしれない。そういう瞬間があるかもしれない。工事の音はクラシックの音の動きとは違うがそこにはやはり「美」がひそんでいる。
工事の音はクラシックより美しい
しかし六ヶ月にもなると
塩が噴き出してやがる
( かほうは ねて まて
ねる が ごくらく)
うっくつとして
白アンくって
ひとりぼっちになった
これらの行には「意味」の脈絡がない。しかし、肉体の脈絡かある。工事の音に美を感じたことのある人間が「白アンくって/ひとりぼっちになった」。この、とんでもない脈絡のなさというか、突然の出会いが、とても美しい。なんだか工事現場でその音楽を聞いて、かえりにどこかで白アンの菓子を買って、それから部屋の中でむしゃむしゃくって、ひとりぼっちになりたい気分にさせられる。
この「ひとりぼっち」は、少しだけ(あるいは強烈に?)詩の後半で「脈絡」を持ちはじめる。「少しだけ(あるいは強烈に?)」と矛盾するようなことを書いたが、それは感じるひとによって違っていて、そしてその違いがあることこそが、豊原の詩を豊かにするからである。ひとによって違うということは、読むたびに違って感じられるということである。つまり、それは、いつでもその瞬間その瞬間であるということでもある。豊原のことばはいつでも脈絡を生きているのではなく、その瞬間瞬間を生きている。だから、おもしろい。読むたびに「一期一会」の世界なのだ。
神様っているんかな
友は言った
僕は「居る」って言いたかった
しかし
神は居る、と、友に言えなかった
いるんかな?
という問いだけが残って
偽善者クリスチャンの僕のシンコーは
本の上だけ、
取り残されている
十字架を見たよな顔で
うがいしている 私
最後の「うがい」がとてもいい。偽善者になってうがいをしてみたい、そんな気持ちになりませんか? うがいをするために、何か偽善者になる方法はないかなあ、なんて、いま私はどうでもいいことを真剣に考えている。ああ、うがいがしたい。でも単純にうがいするだけでは、だめ。偽善者になって、それからうがいをしなければ、と真剣に考えはじめている。
詩を読む楽しさは、たぶ、こういう役にも立たないことをしてみる(考えてみる)楽しさのなかにあるのだと思う。
*
豊原の詩集を読むなら。
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