詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

龍秀美「結界」

2008-02-28 11:03:35 | 詩(雑誌・同人誌)
 龍秀美「結界」(「鷭」3、2008年01月31日発行)
 龍秀美はいつから「意味」を書くようになったのだろうか。ふと、そんなことを思った。「意味」はとてもつまらない。

肥後の男は よく
女をばか呼ばわりする
--あん ばかおんなが
とか
--こん ばかひでみが
という具合だ

(略)

まったく
かれらこそ本物のばかではないかと思うのだが
相手をばか呼ばわりする時の彼らの
得も言われぬ声の甘さと
目尻のシワは
抵抗できないブラックホールのような
力を持っている

 こういう行自体が「流通」の「意味」にまみれていて、ぞっとしてしまうが、そのあとにさらに「意味」が押し寄せる。

昔に生まれなくて良かったと思うのは
あんな力で呼び込む領域を持っているものが
もうひとつあったからだ

国のため 家族のため
愛する者のため
おまえの命をくれという
優しく 甘く
抵抗できない力で呼ぶものが…

(略)

ばか女としては
難しいことは分からないが
ひょっとして九条とかいうものが
結界を囲むもうひとつの結界になれば
と ふと思ってしまう

 「ばか」にはさまざまなニュアンスがある。かつて映画『ラストワルツ』で主人公の女性が男の胸をたたきながら「I love you. 」を連発するシーンがあり、その字幕が「ばかばかばか」だったことをいまでも覚えている。男が死んだかどうかしたと思っていたのだが、その男が目の前にあらわれたときの感情の昂りを、そういうふうに伝えていた。あ、日本語はおもしろいものだと思った。「ばか」にはたしかに愛をつたえる「意味」がある。それはそれとして、ぐいぐい書き込んでゆけば、「流通」している「意味」であっても、その「流通」の領域を超えて、「流通」以外のものになり得ると思う。
 しかし龍はそういうふうにはことばを動かして行かず、唐突に、「過去」の「抵抗できない力」へとことばを動かしてゆく。
 でも、この動かし方というのは、ほんとうに龍の肉体に基づいている動きなのか。そんな昔、龍は実際に「優しく 甘い」力を肉体で感じたことがあるのか。肉体で感じたことはなく、ただ「頭」で知っているだけなのではないのか。
 肉体で知らないことを書くなとは言えないけれど、肉体で知らないことでも、肉体を総動員して書かないと、ことばを「頭」を完全支配してしまう。自分のなかにあることばにならないものの芽が根こそぎ引っこ抜かれてしまう。そして砂漠のように無味乾燥してしまったことばの死骸がひろがることになる。

 「流通」していることばはいつでも肉体ではなく「頭」を通ってゆく。「頭」を通ってゆくことばをつかうと、人間はなんだか自分の「頭」が成長したような錯覚に陥りやすい。それは単に他人のことばが自分のことばを支配するようになった、ということにすぎないのに。

 他人のことばが「頭」を支配すると、肉体は、もう自分の力では動くことができない。「ばか女としては/難しいことは分からないが」と「ばか」を装いながち、その実「私はばかであることを自覚できる」とソクラテス気取りである。「九条」などを突然出してきて、「ばか」を自覚できるということはほんとうは「頭」が明晰であり、その証拠に、ほら、私は「平和」について、「憲法」について、こんなふうに良識を持っている--そう言いたいようでもある。
 しかし、こういう物言いもすでに「流通」している。
 いったん「頭」をことばが動いてゆくと、もうどんなふうにしても、「頭」「頭」「頭」の「意味」になってしまう。

 「ばか」の「意味」を龍はもう一度考え直した方がいい。奇妙な詩を批判することが私の「日記」の目的ではないが、あえて書いておく。

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美空ひばり『ナット・キング・コールをしのんで』

2008-02-28 01:11:11 | その他(音楽、小説etc)
ナット・キング・コールをしのんで ひばりジャズを歌う
美空ひばり
コロムビアミュージックエンタテインメント

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 美空ひばりの声はとても不思議だ。たとえば「スターダスト」。英語で歌っているのだが、「Sonetimes I wonder」と歌いだす瞬間、それが日本語に聞こえる。英語が日本語みたいというのではない。とても美しい英語(だと思う)で歌っているのだが、英語なのに「私はときどき思ってしまう」という日本語としてこころのなかに響いてくるのである。引き込まれて、美空ひばりが英語で歌っているということを忘れてしまう。
 「Fascination 」(魅惑のワルツ)は日本語で、そして途中から英語にかわるのだが、英語にかわったことを一瞬忘れる。そして英語なんだと気づいているはずなのに、やはり「Then I touched your hand And next moment I kissed you 」の瞬間に、日本語として聞こえてしまう。キスした瞬間を思い出してしまう。とても不思議でしようがない。
 「Too Young 」も日本語と英語で歌っている。いつ歌ったものかわからないのだが、少女から大人にかわる瞬間のような不思議な声である。ほんとうの恋に気づいた瞬間、そういうものをまざまざと思い出させてくれる。恋に恋する季節から、ふいに大人にかわって、これが恋なんだと気づく時のどうしようもない不思議な一瞬。そういうものを思い出させる。
 「せつない時にはそっと目を閉じてうたを歌えばこの世はあなたのもの」(「Pretend 」)は、そのまま美空ひばりの生き方なんだなあ、と実感するが、この歌の場合、日本語から英語に変わった瞬間に、なんといえばいいのだろうか、日本語で聞いていた時よりもしあわせな気持ちになる。美空ひばりがぴったりそばに寄り添って「さびしくてもちょっと笑顔をつくってみない?」とささやきかけてくれる気持ちになる。これには心底驚かされる。美空ひばりは英語を英語として歌っていないのである。
 美空ひばりは、たぶん奇妙ないい方になるが、ことばを歌っていない。気持ちを歌っている。歌手ならばそういうことは当然のことなのかもしれないけれど、とりわけ美空ひばりには、そういうことを強く感じる。
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