詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

荒井愛子『イエスをめぐる女たち』

2008-02-16 01:23:14 | 詩集
イエスをめぐる女たち―詩集
荒井 愛子
思潮社、2007年11月30日発行

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 タイトルからもわかることだが、この詩集は「キリスト教」(あるいは「聖書」)と深く関係している。私はキリスト教徒ではない。「聖書」も少し読んだけれど通読したことはない。知識として知っていることはあるけれど、「キリスト教」も「聖書」も、私は理解しているわけではない。納得してるわけではない。だから私の感想はとんちんかんかもしれない。「キリスト教」「聖書」とは無関係に、ただ感じたことを書いておく。
 この詩集はとても読みやすい。たとえば冒頭の「愛」。

少年は はじめ やさしく数えた
少年は つぎに ていねいに数えた
少年は さらに けんめいに数えた
けれど やはり どうしても

羊の数は九九匹 一匹足りなかった
くらかった さびしかった けわしかった
岩山を 少年は はだしで 急いで
必死に 笛吹きながら探した
一匹の羊を
夜の闇におびえ
夜の寒さにこごえ
とりのこされたかなしさにふるえて
いるであろうその羊のこころをたずね
一心に祈りながら
神への道をひた走りに走った
そうして 少年の瞳にしたものは
やはり 神はいるのであった
しっかりと かよわな羊をだきとめ
あたたかく頬ずりされる
愛そのものの神が
     (「一匹の羊」は原文は「一匹の半」となっているが、誤植だろう)

 どこかで聞いたような感じの羊と少年、少年と神の関係が書かれている。「聞いたような」という感じをいだくのは、たぶん「羊」のせいだろう。「愛」ということばのせいだろうと思う。どちらも「キリスト教」「聖書」に関係している。
 そう思いながらも、

一匹の羊を
夜の闇におびえ
夜の寒さにこごえ
とりのこされたかなしさにふるえて
いるであろうその羊のこころをたずね

 という5行にはっとする。ここでは、羊と少年が重なって見えるからである。「夜の闇におびえ」からつづく3行は、読み通すと羊の描写だとわかるけれど、読んでいる最中は少年の姿にも見えるからである。きのう触れた塚本一期「モアイのこと」ではないけれど、少年と羊が一体になっているからである。そういう一体感に詩のはじまりの何かがある。そういうことに気がつき、はっとするのである。はっとして、同時に、美しい描写だなあ、と感心して読み返してしまう。

 この詩集に問題(?)があるとすれば、そういう美しい行を含みながらも(含みながらも、というのはちょっと変な言い方だけれど)、それがとても読みやすい、読みやすすぎるということである。
 「マタイ・忠実」という作品には、次の2行がある。

あの方は声をかけてくだされた
あわれみをかけてくだされた

 「かけてくだされた」ということばが繰り返されている。たぶん「繰り返す」(反復)が荒井の詩の、表面にはあらわれていない「思想」なのだと思う。荒井の本質なのだと思う。そしてまた、「聖書」のことばも何度も何度も繰り返されることで、現在の方に知なっているのだと思う。--宗教のことばは繰り返されることで真実になる。そのことを荒井は、いわば無意識に実践しているのかもしれない。
 この繰り返しは、「愛」にも何度もつかわれている。第一連の「数えた」の繰り返し、そして、「くらかった さびしかった けわしかった」という畳みかけも、一種の繰り返しである。
 あることを何度も何度も繰り返す。反復する。そうするうちに、その運動のもっているムダな部分が自然にとりのぞかれる。もっとも小さいエネルギーで動いていく方法を肉体として獲得する。もちろんこれは思想が肉体化するということだから、とてもいいことではある。
 ただし、そうした思想が、まったくオリジナルなものではなく、「キリスト教」や「聖書」と一緒に結びついてしまうと、それは詩としては、あまりおもしろくない。
 荒井が大切にしているものを「おもしろくない」と言ってしまうと、荒井を傷つけることになるかもしれないが、私には「おもしろくない」としか言いようがない。別なことばで言い換えるならば、「現代詩」を読んでいる、という気持ちにならないのである。
 「キリスト教」や「聖書」という「流通」している言語と結びつくのではなく、まだことばとして定着していない、何かもっと不透明なもの、まだだれも解明していないものと結びついたことばを読みたい、という気持ちになるのである。
 私は「キリスト教」も「聖書」も知らないけれど、知らないはずのそれらが、きっと荒井の書いていることばどおりに構成されているだろうという印象が、ちょっと困るのである。
 キリスト教徒や荒井には、この「困る」がわからないかもしれない。
 私は、宗教として、詩を読みたいとは思わない。宗教とは無関係に、ただ、新しく生まれ変わろうとすることば--文学のことばを読みたいのである。
 こういう欲求を荒井の向けていいものかどうか、実は、私は判断しかねているのでもあるけれど。

コメント
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