詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

古井由吉『白暗淵』

2008-02-23 11:10:33 | その他(音楽、小説etc)
白暗淵 しろわだ
古井 由吉
講談社、2007年12月10日発行

このアイテムの詳細を見る

 本(小説)には最後まで読まないといけないものがある。そうではなくて途中まででいい本がある。あるいは任意の場所を開いて読むだけでいい本がある。古井由吉の小説は、最近、最後まで読まなくていいし、任意のどんなページを開いてもいい小説になってきた。これは、ことばが「詩」になりはじめたということでもある。ことばは「結論」をもとめない。ことばは動いては行くが、動いた結果、それでどうなったか、と問われると何もおこらない。あ、ことばはこんなふうに動くことができる、というそれだけがわかる。そして、ことばがこんなふうに動くことができるとわかることが強い衝撃として残る。ことば自体の力が、そこに見えてくる。--この短編集の作品は近年最大の「詩」である。
 「朝の男」の冒頭。
 
 物を言わずにいるうちに、自身ではなく、背後の棚の上の、壺が沈黙しているように感じられることがある。沈黙まで壺に吸い取られたその底から、地へひろがって、かすかに躁(さわ)ぎ出すものがある。

 「静けさ」を感じる一瞬。そのことを書いている。ただその「静けさ」は一瞬「静けさ」に感じられるだけで、何も動いていないわけではない。いままで誰も書かなかったものが動いている。しかも、それは「ことば」が動くので、その「ことば」にしたがって動いているだけなのである。「ことば」が何かを動かしているとさえ言える。
 最初読んだ時、

 物を言わずにいるうちに、自身ではなく、背後の棚の上の、壺が沈黙しているように感じられることがある。

 という感覚の新鮮さに引き込まれた。自分ではなく壺が沈黙している。自分と壺が一体になってしまっている。自分というより、自分の中にある沈黙と自分の外にあるものが一体になってしまっている。そういう感じだ。そういう不思議な感覚から、ことばが自然に、不思議な感覚の、さらに動いて行き、動いて行くことで、その世界の構造を強靱なものにする。

沈黙まで壺に吸い取られたその底から、地へひろがって、かすかに躁ぎ出すものがある。
 
 そして、そういう構造が強靱なものになったとき、同時にとても不思議なことが起きている。
 「沈黙」(静けさ、静寂)を書いていたはずなのに、あっと言う間に「躁ぎ出す」という世界に変化してしまっている。「躁ぎ出す」こと自体は、それが音をともなっているとはかぎらない。無言のまま「躁ぎ出す」ということもあるだろう。しかし、その「躁ぎ出す」は「さわぎだす」であり、「さわぎだす」は「騒ぎ出す」を引き寄せる。どこかに「騒ぐ」(騒音の騒、つまり音)を含んでいる。何かしら最初に書いたことと矛盾したものを含んでいる。
 
 だが、それはほんとうに矛盾なのか。それとも世界というものの必然なのか。

 古井由吉のことばは、実は、そういうところへ動いて行く。古井由吉のことばが問いかけているのは、世界の存在の意味そのものである。世界に何かが存在する。そのことの意味へ迫ろうとする。その何かを、たとえば「男」(私)と言い換えてもいいが、その存在の意味を他人との関係というよりも、「男」(私)と「ことば」、「ことば」がとらえることのできる「世界」のなかで追い求める。

 別な言い方をしてみる。先に引用した冒頭の3行。その3行のなかで、もしこのことばがなければ古井由吉がこの文章を書くことができなくなるということばは何か。私がときどき「キーワード」として取り上げていることばは何か。

沈黙まで壺に吸い取られたその底から、

 この一節に書かれている「その」である。
 「物を言わずに」の代わりに「ことばを一言も発せずに」ということができる。「自身」のかわりに「私」でもいい。「背後」のかわりに「目の前の」でもいいし、「壺」のかわりに「花瓶」でもいい。そういう名詞そのものは代替がきく。しかし、「沈黙まで壺に吸い取られたその底から、」の「その」だけには代替になることばがない。
 「その」自体は省略することもできる。ただし、そのときは文体がすこしかわる。たとえば、「沈黙まで吸い取った壺の底から」という具合に。そして文体がかわるとき、実は、ほんとうは「世界」そのものがかわっている。「沈黙まで壺に吸い取られたその底から、」と「沈黙まで吸い取った壺の底から」は似ているようで、共通するところはまったくないのである。その違いをつくっているのが「その」である。

沈黙まで壺に吸い取られたその底から、

 この「その」には「連続」と「連続する」ことで「そこ」から離れ、「そこ」の内部へと分け入って行く動きがある。粘着性と連続性、粘着しながら世界をじわりじわりとひろげてゆく力がある。
 古井由吉はことばのもっている粘着性を利用しながら、ことばの世界をじわりとひろげてゆくことを試みている。古井由吉のことばの冒険は、たんに世界をひろげることではなく、あることがらを粘着力をもったまま、じわり、ずるり、とひろげ、「沈黙」が「さわぐ」になったように、すべてのものが表裏一体になっているということを明るみに出す。
 「沈黙」は「静か」なだけではない。「沈黙」は「躁ぐ」であるり「さわぐ」は「騒ぐ」である。「騒ぐ」は「音」であり、「音」は「沈黙」の対局にある。それは対局にありながら、常に凝縮した一点でもある。一点と無限--そういう結びつきが、ことばを分け入っていくと見えてくる。
 こうした矛盾(あるいは、形が定まっていないことを指して、「混沌」と言い換えてもいいかもしれないが)は、次のような形の文章にもあらわれている。

急いではならない。急ぐほどに道は遠くなる。急いで踰(こ)えられるような距離ではない。時間も空間も永遠の相を剥いている。歩調を乱してもならない。立ち停まるはまして危い。足を停めてあたりを見まわしたら最後、魂が振れて、昨日と今日とのあいだにぽっかりとあいた宙に迷い出し、妻子の安否も忘れることになりかねない。

 急ぐと急がない。永遠と一瞬。矛盾したものがからまりあいながら、世界をつくっている。世界は、矛盾したものがからまっている。そのなかには、「昨日と今日とのあいだにぽっかりとあいた宙」というような、ことばでしかとらえられないものもある。
 古井由吉は常にことばでしかとらえられないものを書いている。ことばの世界を書いているのである。つまり、それは「詩」だ。

沈黙まで壺に吸い取られたその底から、

 はことばだけで成り立つ世界である。沈黙が壺に吸い取られるという現象そのものもことばでしかありえない世界だが、「沈黙まで壺に吸い取られたその底から、」の「その」はさらにことばでしかない。純粋なことば。対象を持たないことば。ことばが動くときにことば自身が要求することば--ことばのためのことばである。

 古井由吉の作品は全部読まなくてもいい。全部読んでも「結論」などはない。「答え」はいつも書かれていない。しかし、だからこそ、全部読みたくなる本である。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする