詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

塚本一期「モアイのこと」「初詣の道」

2008-02-15 11:24:46 | 詩(雑誌・同人誌)
現代詩手帖 2008年 02月号 [雑誌]

思潮社

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 「新人作品」欄の2篇。作品を選んでいる蜂飼耳がすでに書いていることだが、次の部分がおもしろい。「モアイ」の2連目。

モアイがいるところは
草が生えていて
島で
ごつごつしていて 海が
すごくずっと遠くまで見えるのを見たことがあって
モアイは並んで岸から
すごく遠い目をして海を見てたんじゃないかな
帰りたいところがあるような顔をしているように見えたと思う

 「モアイ」と塚本が重なり合う。何かを見ること、何かを書くことは、その何かと一体になってしまうこと。自分が自分でなくなってしまうこと。そして、自分が自分でなくなることが、自分に「なる」ことでもある。それは「存在」としてそこに「ある」ということではなくて、「生きる」ということでもある。「なりつづける」ことでもある。
 「帰りたいところがあるような顔をしているように見えた」とき、塚本の顔は、私には「帰りたいところがあるような顔をしているように見え」る。塚本に会ったことは、もちろん、ない。ないけれど、そんな顔が思い浮かぶ。
 ここに書かれているのは実は「顔」ではなく、感情である。顔ではなく、感情が見える。(表情の「情」は感情の「情」でもある。)感情が見えるから、たとえ会ったことのない塚本であっても、その顔が見えたように感じてしまうのである。私たちはいつでも「顔」をみるふりをして、ほんとうは表情、つまり感情をみている。
 塚本も、同じように「モアイ」の顔ではなく、感情をみている。
 ただし、塚本は、その「感情」というものにおぼれない。そこからさらに先へ(?)とすすむ。もっと混沌したもの、というか、「感情」のように「流通」するものではなくて、「流通」以前の根源へと向かう。つまり、感情がもっとむき出しになって(?)、「感じ」にかわる。
 「情」になってしまうと、それはべたべたした抒情(ここにも「情」が登場する)にまみれる。
 作品の3連目。

すごく大きいよな
だから
草の感じとか
赤い岩とか
モアイの顔があって
モアイの顔に触るとすごくいいよな
そこにはビルがないよな そして
お金もないから
そこでひび割れた岩とか風とかも元気で
かなしそうなモアイだけ人間がいたっていう感じがするだろう

 「感じ」。「草の感じ」の「感じ」。
 私は、この3連目の「草の感じ」の「感じ」という表現が、この詩のなかではいちばん好きだ。
 「モアイ」と一体になったあとの、塚本が塚本ではなくなったあとの、はじめて見る風景。まだ描写にならない何かを含んでいる「感じ」。「草の感じ」の「感じ」には、そういうものが含まれている。草の何を描写していいか、まだわからない。わからないけれど、わかっている。何かが塚本にだけはわかっていて、それを伝えようとして「感じ」というむき出しの表現になってしまうのだ。
 「感じ」は、いわゆる「文学的表現」になりえていない。「草の感じ」ときいただけで、あ、塚本の作品だとわかるひとはいないだろう。「感じ」ということばだけを取り出して、それが塚本独自のもの、と主張しても誰にも伝わらないだろう。「感じ」ということばはだれでもがつかっている。どこにも塚本が「刻印」されていない。--しかし、ほんとうは、深く深く塚本が刻印されている。その刻印を証明する方法を私たちが持たない(それを私が証明できない)だけのことである。
 こういうことば、作者独自のことば(そのことばがなければ作品が成り立たないことば)、しかもそれが作者独自のものであると証明できないようなことばが、私は好きだ。そのことばをじっと見つめていると、そこから証明できないけれど作者の「思想」が浮かび上がってくる。「思想」が生まれてきているのがわかる。そういうことばが。

 この「草の感じ」の「感じ」は最終行で、大転換する。

かなしそうなモアイだけ人間がいたっていう感じがするだろう

 この「感じ」はだれのもの?
 たちどまって、うなって、七転八倒してしまうのだ。私は。
 何かを見て、その対象と一体になる。一体になることで、自己を超越する。そのあとで生まれてくる「感じ」。それは、まだだれも感じたことのない「感じ」なのだ。塚本は「モアイ」の「感じ」のように書いているけれど(文法上はそんなふうに読むことができるけれど)、そんなふうに考えることを、私の心は私に許さない。
 七転八倒する--と書いたのは、そういう意味である。もう、まるごと、その1行を受け入れることしかできない。
 書き換え不能な絶対言語としての「感じ」。そういうものが、ここにはある。



 「初詣の道」の書き出しの2行、特に冒頭の「じゃあ、」が不思議で、とてもおもしろい。私にはとうてい書くことができない何かがある。そういうものの前では、ただ脱帽し、そのことばをまるごと受け入れるだけである。

じゃあ、おれは、眠くなりました。
あと、爪をかみました。



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