監督 ジャ・ジャンクー 出演 シェン・ホン、ハン・サンミン、ワン・トンミン
この映画については、すでに2007年10月31日の日記について書いた。前回はシネテリエ天神で見た。今回はソラリアシネマ2で見た。ソラリアシネマ2もこの映画を見るのに万全の映画館とは思わないがシネテリエよりは幾分ましである。スクリーンが汚れていないから、映像の美しさがきわだつ。
この映画の第一の特徴はすべての存在に生活の跡が刻印されていることである。すべての映像に、暮らしの刻印が美しく残されている。主人公の着ているよれよれのシャツや汗とほこりによごれた肉体さえも、その生活の刻印ゆえに美しく迫ってくる。壊されるだけのビル、その配管や壁、破れたガラス窓はもちろん、ダムの中に生えている草、山にかかる霧さえも、そこで暮らしている人々の息を含んで揺れている。人々に差す太陽の光、太陽の光を受けてやわらかく変わる人々の輪郭の色にも、暮らしというものが、しっとりとなじんでいる。映像を見ている、というより、いま、そこにある暮らしそのもの、苦悩も悲しみもよろこびも含んだ人間の息づかいそのものを全身で浴びるような気持ちになる。こんな美しい映像は、この先10年は絶対にあらわれることがない。(何回も書いたことだが、この映画は10年に1本の映画である。この美しさを超えられるのはコーエン兄弟しかいないかもしれない。生きているならルノワールにも期待したい。)
再び見て、映像の美しさには再び息を飲んだが、前回、映像の美しさに目を奪われて見落としていたものに気がついた。音だ。映画は映像と音でできているが、その音もたいへんすばらしい。(シネテリエ天神はスピーカーが悪いのか、劇場の構造に問題があるのか、音も無残な状態であった。)映像がはじまる前の、暗闇に流れる船の汽笛の深い音。水を、空中の水分を含んで揺れる音--その響きに、もうこころが奪われてしまう。通りを行き交うバイクの音や遠くから聞こえるビル解体の音。言い合っている人々の怒りに満ちた激しい声さえ、人間の声を超越して、暮らしの音になっている。(役者ではなく、現地のひとをつかっているということも関係しているかもしれない。)主役の男と妻が飴をなめながら見つめ合っているとき、遠くのビルが爆破で崩れるときの音の美しさもいいが、今回は特に、船の上で少年が歌う流行歌のようなもの、その歌声にとてもひかれた。男女の仲を歌っている感じ(日本でいえば演歌だろうか)なのだが、その内容を、実際の恋愛を知らないがゆえに、予感のリアリティーで覆ってしまう響きにひかれた。主人公の携帯電話の着メロ、主人公の友人(?)のやくざの携帯の着メロの違いにも、ていねいな気配りが感じられる。そうした細部の音にも、暮らしというか、人間の「歴史」があらわれており、その暮らし・歴史がそのまま人間の「思想」となっていることがよく伝わってくる。
映像も音も、その映像、音とともにある人間の思想なのだ。あらゆる存在の中に、監督の、ではなく、長江で生きているひとびとの思想がはっきりと刻印されている。そのことがこの映画を、10年に1本の傑作にしているのである。この映画を抜きにして、今後10年の映画は絶対に語れない。再び、その思いを強くした。
この映画については、すでに2007年10月31日の日記について書いた。前回はシネテリエ天神で見た。今回はソラリアシネマ2で見た。ソラリアシネマ2もこの映画を見るのに万全の映画館とは思わないがシネテリエよりは幾分ましである。スクリーンが汚れていないから、映像の美しさがきわだつ。
この映画の第一の特徴はすべての存在に生活の跡が刻印されていることである。すべての映像に、暮らしの刻印が美しく残されている。主人公の着ているよれよれのシャツや汗とほこりによごれた肉体さえも、その生活の刻印ゆえに美しく迫ってくる。壊されるだけのビル、その配管や壁、破れたガラス窓はもちろん、ダムの中に生えている草、山にかかる霧さえも、そこで暮らしている人々の息を含んで揺れている。人々に差す太陽の光、太陽の光を受けてやわらかく変わる人々の輪郭の色にも、暮らしというものが、しっとりとなじんでいる。映像を見ている、というより、いま、そこにある暮らしそのもの、苦悩も悲しみもよろこびも含んだ人間の息づかいそのものを全身で浴びるような気持ちになる。こんな美しい映像は、この先10年は絶対にあらわれることがない。(何回も書いたことだが、この映画は10年に1本の映画である。この美しさを超えられるのはコーエン兄弟しかいないかもしれない。生きているならルノワールにも期待したい。)
再び見て、映像の美しさには再び息を飲んだが、前回、映像の美しさに目を奪われて見落としていたものに気がついた。音だ。映画は映像と音でできているが、その音もたいへんすばらしい。(シネテリエ天神はスピーカーが悪いのか、劇場の構造に問題があるのか、音も無残な状態であった。)映像がはじまる前の、暗闇に流れる船の汽笛の深い音。水を、空中の水分を含んで揺れる音--その響きに、もうこころが奪われてしまう。通りを行き交うバイクの音や遠くから聞こえるビル解体の音。言い合っている人々の怒りに満ちた激しい声さえ、人間の声を超越して、暮らしの音になっている。(役者ではなく、現地のひとをつかっているということも関係しているかもしれない。)主役の男と妻が飴をなめながら見つめ合っているとき、遠くのビルが爆破で崩れるときの音の美しさもいいが、今回は特に、船の上で少年が歌う流行歌のようなもの、その歌声にとてもひかれた。男女の仲を歌っている感じ(日本でいえば演歌だろうか)なのだが、その内容を、実際の恋愛を知らないがゆえに、予感のリアリティーで覆ってしまう響きにひかれた。主人公の携帯電話の着メロ、主人公の友人(?)のやくざの携帯の着メロの違いにも、ていねいな気配りが感じられる。そうした細部の音にも、暮らしというか、人間の「歴史」があらわれており、その暮らし・歴史がそのまま人間の「思想」となっていることがよく伝わってくる。
映像も音も、その映像、音とともにある人間の思想なのだ。あらゆる存在の中に、監督の、ではなく、長江で生きているひとびとの思想がはっきりと刻印されている。そのことがこの映画を、10年に1本の傑作にしているのである。この映画を抜きにして、今後10年の映画は絶対に語れない。再び、その思いを強くした。