詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジャ・ジャンクー監督「長江哀歌」

2008-02-18 23:04:42 | 映画
監督 ジャ・ジャンクー 出演 シェン・ホン、ハン・サンミン、ワン・トンミン

 この映画については、すでに2007年10月31日の日記について書いた。前回はシネテリエ天神で見た。今回はソラリアシネマ2で見た。ソラリアシネマ2もこの映画を見るのに万全の映画館とは思わないがシネテリエよりは幾分ましである。スクリーンが汚れていないから、映像の美しさがきわだつ。
 この映画の第一の特徴はすべての存在に生活の跡が刻印されていることである。すべての映像に、暮らしの刻印が美しく残されている。主人公の着ているよれよれのシャツや汗とほこりによごれた肉体さえも、その生活の刻印ゆえに美しく迫ってくる。壊されるだけのビル、その配管や壁、破れたガラス窓はもちろん、ダムの中に生えている草、山にかかる霧さえも、そこで暮らしている人々の息を含んで揺れている。人々に差す太陽の光、太陽の光を受けてやわらかく変わる人々の輪郭の色にも、暮らしというものが、しっとりとなじんでいる。映像を見ている、というより、いま、そこにある暮らしそのもの、苦悩も悲しみもよろこびも含んだ人間の息づかいそのものを全身で浴びるような気持ちになる。こんな美しい映像は、この先10年は絶対にあらわれることがない。(何回も書いたことだが、この映画は10年に1本の映画である。この美しさを超えられるのはコーエン兄弟しかいないかもしれない。生きているならルノワールにも期待したい。)
 再び見て、映像の美しさには再び息を飲んだが、前回、映像の美しさに目を奪われて見落としていたものに気がついた。音だ。映画は映像と音でできているが、その音もたいへんすばらしい。(シネテリエ天神はスピーカーが悪いのか、劇場の構造に問題があるのか、音も無残な状態であった。)映像がはじまる前の、暗闇に流れる船の汽笛の深い音。水を、空中の水分を含んで揺れる音--その響きに、もうこころが奪われてしまう。通りを行き交うバイクの音や遠くから聞こえるビル解体の音。言い合っている人々の怒りに満ちた激しい声さえ、人間の声を超越して、暮らしの音になっている。(役者ではなく、現地のひとをつかっているということも関係しているかもしれない。)主役の男と妻が飴をなめながら見つめ合っているとき、遠くのビルが爆破で崩れるときの音の美しさもいいが、今回は特に、船の上で少年が歌う流行歌のようなもの、その歌声にとてもひかれた。男女の仲を歌っている感じ(日本でいえば演歌だろうか)なのだが、その内容を、実際の恋愛を知らないがゆえに、予感のリアリティーで覆ってしまう響きにひかれた。主人公の携帯電話の着メロ、主人公の友人(?)のやくざの携帯の着メロの違いにも、ていねいな気配りが感じられる。そうした細部の音にも、暮らしというか、人間の「歴史」があらわれており、その暮らし・歴史がそのまま人間の「思想」となっていることがよく伝わってくる。
 映像も音も、その映像、音とともにある人間の思想なのだ。あらゆる存在の中に、監督の、ではなく、長江で生きているひとびとの思想がはっきりと刻印されている。そのことがこの映画を、10年に1本の傑作にしているのである。この映画を抜きにして、今後10年の映画は絶対に語れない。再び、その思いを強くした。


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アン・リー監督「ラスト、コーション」

2008-02-18 02:06:04 | 映画
監督 アン・リー 出演 トニー・レオン、ワン・リーホン、タン・ウェイ

 戦争とセックス。大島渚の「愛のコリーダ」を思い出してしまう。大島渚の「愛のコリーダ」は戦争をほんの少しだけ登場させているが、そのほんの少しがたいへんな傷になっている。人間のセックス図式化してしまうことになってしまった。戦争(国家暴力)から逃れるようにセックスをむさぼる--という関係の中にセックスを閉じ込め、国家対肉体(恋愛)という図式を浮かび上がらせてしまうことになってしまった。セックスとはたしかに個人的なことであるが、それは国家と対峙しないことには魅力を語れないもののように図式化されてしまった。個人を否定する戦争(国家権力)と対比しないことにはセックスのほんらいのいのちの輝きを描けないかのような印象を残し、セックスが不当におとしめられることになってしまった。
 この映画も同じである。男と女が出会う。そこに戦争がからんでくる。さらにはスパイという関係がからんでくる。尋常ではありえない関係のなかで、「わな」が「わな」ではなくなってゆく。肉体でだますつもりが、極限状況のなかで、肉体が理性を越境し、心情にかわってゆく。これが、国家というと少し違ってくるかもしれないが、政治の権力のなかで描かれるとき、奇妙なことが起きるのである。極限のなかで、肉体がめざめ、新しい愛の形がはじまるのだが、もし、その極限状況がなかったなら、それではセックスの愛は成立しないのか、という疑問がうまれるのである。
 セックスの不可思議さ、どんなものをも越境する力を描きたいのだろうけれど、その「どんなもの」を「国家権力(戦争)」と安易に結びつけると、戦争がなければ深い愛、肉体の愛はめざめないのか、という「いやらしい」疑問が頭をもたげるのである。
 何か障害がないと、セックスからはじまり、愛へ移行するという関係はあり得ないのか、という疑問をいだいてしまう。極限のなかで、肉体が理性を越境するというのはかっこいいが、極限がないとだめなのか、不可能なのか、という疑問が生まれる。極限や、セックスを禁じる何かがないときにだって、肉体は理性を越境してもいいはずである。そういうもの、愛を制限するもの、障害がないときにだって、肉体を心理を越境してもいい、心情を越境してもいいのではないか。

 この疑問に、この映画はこたえない。「愛のコリーダ」を一歩も超えない。「愛のコリーダ」には「赤」という強烈な美しい色が存在した。また、愛人の肉体を破壊するという個人的な暴力も存在し、それが愛を燃え上がらせていた。(「愛のコリーダ」は、そういう個人の肉体の暴力、どうすることもできない欲望の越境を描いているのだから、なおのこそ、軍隊の描写は不要だったのだが。)
 この映画は、「愛のコリーダ」が提出した「色」も「個人の暴力」もスクリーンに提出していない。肉体を提出していない。セックスはたしかにていねいに、念入りに描かれてはいるが、そこから肉体を破壊してしまうまでの暴力は誕生していない。そのかわりに、「愛」というまるで恋愛の教科書のようなものが引き出されている。
 女が最後の最後になって、男に対して「逃げて」という。それは女の「愛」がそういわせるのだが、これがとてもつまらない。純愛さかげんが、とてもつまらない。女は単に「恋愛」にめざめただけなのだ。しかも、それが「わな」にかけた男とのセックスによって何かを見つけ、その結果、「愛」にめざめたというのならまだいいが、そんなふうには受け止めることは私にはできない。
 女は男を「わな」に誘い込むために、事前に別の男(同志)とセックスの練習をする。そういうくだらないことに肉体をつかってきた女が、ほんとうに女の肉体を求める男の欲望のなかで、欲望こそが愛なのだと気がついただけなのだ。もし、同志とのセックスの練習がなかったら、男の欲望に、その欲望の悲しさに気がつくこともなかっただろう。セックスの練習--そのお粗末なセックスが、男とのセックスを輝かせ、女を錯覚させただけなのである。
 これは、いわば意地悪な見方なのだろうけれど、そういう意地悪な見方がやすやすと成立してしまうほど、浅薄な映画である。
 「愛のコリーダ」が、ただただ、なつかしくなる映画である。この映画になにか功績があるとすれば、それは「愛のコリーダ」がいかにすばらしい映画であったかを思い出させてくれるという功績である。



この映画を見る暇があったら「愛のコリーダ」を見ましょう。


愛のコリーダ 完全ノーカット版

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