詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

辻和人「聖なる印」

2008-02-10 13:11:49 | 詩(雑誌・同人誌)
 辻和人「聖なる印」(モーアシビ」12、2008年01月20日発行)
 ジョギング中に野球場のマウンドに犬の糞を見つける。そのとき思ったことを、思った順序で書いている。

生乾きのまだ新しいフン
ということは飼い主が犬をここへ連れてきたのはぼくが来るほんのちょっと前だ
恐らくここで飼い主さんは
華麗なフォームで一球をシュッ
そして隣でワンちゃんも一球(笑)ということですな
マウンド近くに立ってノビをする
高揚した飼い主さんの鼓動と呼吸のバイブレーションが伝わってきて
ちょっといい気分だぞ
あ、朝日が昇ってきた

静寂に包まれたソレ
真っ赤な光に照らし出された
グラウンドの真ん中のソレは
聖なる土地の聖なる印なり

いなくなった者たちが残した謎のメッセージ
広い空間にぼおっう浮かび上がっている
いくら想像してもメッセージの真意に到達できない
それはすばらしいこと
到達できない分、謎が深まり聖性が高まっていくからだ

 「バイブレーション」ということばをつかわずにバイブレーションを伝えるのが詩である--というような批判をしてみたい気持ちにもなるけれど、この詩の場合は、そういう既成のことばがとても有効である。「そして隣でワンちゃんも一球(笑)ということですな」の(笑)も同じだが、こうしたことばは辻が何事かを自分自身のことばで探り当てようとはしていない基本的な態度(思想)をうまくあらわしている。
 自分自身のことばではなく、既成のことばのうえに乗って、そのスピードのよさ(流通性のよさ)に酔って動いていく。
 たからこそ、

聖なる土地の聖なる印なり

 の唐突な文語「なり」も出てくる。こんなことばは谷村新司くらいしかつかわないと思うけれど、こんなふうに軽々と自分自身のことば(日常の口語)を捨ててしまって、気分が軽くなるというのはいいここかもしれない。(辻の気分のよさは「なり」を含む4行の連に集約している。ことばはどんどん凝縮するから、1行が他の連に比べて一気に短くなっている。スピードが出ているのである。)
 このとき「広い空間にぼおっう浮かび上がっている」のは、詩に書かれているような「いなくなった者たちが残した謎のメッセージ」ではなく、辻の高揚感である。ハイな気分だけである。どれくらいハイになってしまっているかというと、

それはすばらしいこと

 と辻がたどりついた結論(?)を「すばらしい」と自画自賛するしかないくらいハイになってしまっている。
 そして、そのハイな気分のなかで、突然、正気(?)の人間のように「哲学」を叫ぶ。

到達できない分、謎が深まり聖性が高まっていくからだ

 傑作である。
 (笑)「バイブレーション」というような俗な(?)口語から、文語「なり」を経て、緻密な散文意識が逆説の形でつかんでしまう「哲学」までの、動きの変化が傑作である。そのスピードが傑作である。「到達できない分、謎が深まり聖性が高まっていく」というような「哲学」はバタイユが何百ページも書いたあとに錯覚として浮かび上がってくることばかと思っていたが、意外と短い思考のなかでも誕生するらしい。笑ってしまった。うれしくて、笑いが止まらなくなってしまった。
 あとは、この高揚をどこまで持続し、もう一度何かに飛躍できるかどうかが重要なのだと思うけれど、その「もう一度」の部分がおもしろくない。だから、引用はここまで。特に最後の1連はがかっりするので読まないことをおすすめします。 

コメント
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