詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三井葉子『風土記』

2008-02-02 11:04:39 | その他(音楽、小説etc)
風土記
三井 葉子
深夜叢書社、2003年07月27日発行

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 三井葉子の文章(散文)を私はこれまで注意して読んだことがなかった。今回、はじめて、まとめて読んだ。文体がおもしろい、と思った。
 「小野さんの話」。「小野さん」とは、もちろん小野十三郎のことである。その冒頭。

 大阪で雑談しているとき。小野十三郎という資質は一体、誰に擬することができるだろうという話になった。小野良樹さんと山田兼二さんと私がいた。それまではあの男のエゴイズムについて、というより。唯我独尊、ただひとり昂然と生きていた--と小野さんの長男である良樹さんがいう(わたしからいうと、辺りを払うあのうすぼんやりした光ということになるのだけれど)男のエゴイズムの直下で。日常的リアリズムが、つまり家族がどんな目に遭うかという話をしていた。

 句点「。」のつかいかたか独特である。「大阪で雑談しているとき。」の「。」は「時間」を独立させて提示している。こういうつかい方は一般にもある。しかし、

それまではあの男のエゴイズムについて、というより。

 は、どうだろうか。
 文章では、一般的にこういう「。」のつかい方はしない。「。」で切れてしまえば文章がつづかない。文のおわりは、日本語の場合、基本的に「動詞」でなくてはならない。そういう基本的な「文法」に反して三井は文章を書いている。
 これはもちろん三井がわざとしていることである。わざとしている、ということは、そこには「主張」がある、ということである。そしてその「主張」というのは、たとえば「戦争はしてはならない」とか「男女は平等である」というような「主張」よりも、もっともっと深い「主張」である。「思想」である。
 それは立ち止まること、呼吸すること、につながる。
 文章の途中で呼吸するとき(息継ぎをするとき)、普通は句点「。」ではなく、読点「、」をつかう。冒頭の「大阪で雑談しているとき。」は「、」の方がある意味では読みやすい。「それまではあの男のエゴイズムについて、というより。」も「、」である方が、次の文章へ移りやすい。スムーズである。
 ところが、三井はこの「スムーズ」を拒絶するように「。」と書く。たしかに、そこには拒絶があるのだ。「スムーズ」に対する拒絶があるのだ。立ち止まり、いま書いたことをいったん中途半端であっても終える。いや、むしろ中途半端にするために、そこで終えるのである。「スムーズ」なだけならいいが、「スムーズ」に乗ってしまうと、ことばは暴走してしまう。ときには、自分で感じたこと、考えたことを超えて、ことばがかってに何かをつかんできてしまう。--それはそれで、とても魅力的なことだけれど(詩の魅力はそういうところにいちばんよくあらわれるのだけれど)、三井はそういうことを拒絶するのである。
 「それまではあの男のエゴイズムについて、というより。」につづく文章の方が、そのことをさらによく伝えているかもしれない。

唯我独尊、ただひとり昂然と生きていた--と小野さんの長男である良樹さんがいう(わたしからいうと、辺りを払うあのうすぼんやりした光ということになるのだけれど)男のエゴイズムの直下で。

 この文章のあとには省略がある。省略を補えば、「……直下で、小野十三郎という資質は一体、誰に擬することができるだろうという話になった。」ここで文章は冒頭にもどるのである。そして、その引き返しそのものが、たとえば「唯我独尊」「昂然とし生きていた」というような「強いことば」が暴走することを防いでいることもわかる。ことばはある瞬間、暴走する。そういうことは日常的にだれもが体験することだけれど(たとえば、怒りにまかせていわなくてもいいことまでいってしまうとか)、その瞬間に三井はしっかり立ち止まることができるのである。立ち止まろうとする意思を持っているということでもある。何かにのっかって加速してはいけない、という「思想」が、これらの句点「。」には隠れているのである。そういうことは書いてはいないが、句点「。」には、そういうことばにしていないものが、ほんとうは存在するのである。
 次の部分を読むと、そういうことがより鮮明になるかもしれない。

 小野さんは無関心だったのよ、利己的というより。と私は言い。私は小野さんの詩がもう早くに完成していたのだと思った。小野さんの詩は群衆や子らと共に、つまり日常的時間を共に育ちながら大きくなったのではなかった。薄情だったね、と小野さんのことを言うと。そうだったとみんな言う。
 でも。
 いやァ、よく気がついて。よくして貰いましたと、この席のあとで行った「ルル」のマスターの奥田さんが言った。

 句点「。」のたびごとに、その「。」で終わった文章が暴走が阻止されている。
 特に「でも。」の1行が強烈である。「おのは薄情だった」という文章(意味)が指し示そうとする世界がそこで完全に遮断される。そこから何かが暴走し、小野の姿が一人歩きするのを防止する。
 そして「いやァ、」以下が導き出される。

 三井の句点「。」はことばの暴走を防ぐ「。」である。ことばの暴走を拒絶する「。」である。私は、三井の師である小野十三郎のことをよく知らないが、こうして三井の文章を読んでいると、三井が小野から引き継いだもの(吸収したもの)は、そういうことばの暴走を止める呼吸だったのではないのか、という気がしてくる。ことばを暴走させない。かならず日常へ引き戻す。--そこには暴走することば、そこには「政治の暴走することば」も含まれるかもしれないが、そういうものに対する厳しい批判がある。ことばで書き表す批判よりも、もっと強い批判、肉体でつかみ取った批判、肉体そのものになった批判が生きていると思う。

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フランソワ・ジラール監督「シルク」

2008-02-02 09:55:02 | 映画
監督 フランソワ・ジラール 出演 マイケル・ピット、キーラ・ナイトレイ、役所広司

 この映画はとても奇妙である。前半と後半がまったく違っている。
 前半。蚕の卵を求めてフランスから日本にわたる男。そこで、男は男としてのありがちな夢を見る。つまり、東洋の神秘的な女にひかれる。謎めいた肌のふれあい、読めない手紙が男の思いを駆り立てる。ありがちな、つまり紋切り型の描写がこの映画の前半を彩る。そうか、西洋から見ると日本の女はこんなふうに見られているのだな、ということがよく分かる。日本の風景、日本の男がどう見られているかもよく分かる。
 後半。男はフランスに帰って来て、妻との生活を再開する。男の胸のなかには日本の女が残り続けている。妻は、そのことを知る。セックスすることによって。このセックスシーンが、なかなかすばらしい。前半と後半がまったく違ったものになることを、1分にも満たないセックスシーンで、くっきりと暗示するのである。女は、男が自分の体を求めていない(こころも求めていない)ことを瞬時に悟る。そして、セックスの途中でセックスを拒むのだ。長い長い中断(男が日本に行っていた期間の中断)にもかかわらず、その中断を埋めることを拒むのである。このシーンを見逃すと、この映画はまったくわからなくなる。
 男は、この拒絶の意味がわからない。すでに男のこころは妻の方に向いていないからである。男は、このときから、いわば2人の女のあいだで宙づりになる。2人の女の、どちらのこころも分からないのである。わからないまま、それでも男はなんとか女を求める。求める気持ちは、近くにいる妻を求める気持ちよりも、より遠くにいる謎の女に対して強く働く。
 ここから映画は、ほんとうは映画自身の「白眉」の部分へ向かうはずである。はずであった。それが狙いである--ということは、とてもよく分かる。映画を見ながら、一瞬、わくわくしてしまう。(前半と後半を区切るセックスシーンで、私は、かなり期待してしまった。)
 ところが、映画はここから映画ではなくなってしまう。「小説」になってしまう。ことばの世界になってしまう。見るべき映像は何一つない。前半にあふれかえっていた、日本への幻想、夢想に彩られた映像はもちろんない。ひたすら、ことば、ことば、ことば、ことば、の世界である。それを象徴するのが、男には読むことすらできない「手紙」である。女が書いている。
 映画は、その「手紙」の解読(?)へ向けて進む。その「解読」がまた、とてもとてもつまらない。男は自分で読む努力をしない。男がすることは、それを読むことができる人間(日本人の娼婦)を探し、それに読んでもらうということだけである。こんな安直な姿勢からは「恋」は生まれないし、「愛」も育つはずがない。簡単に言ってしまえば、もう、それだけで結末は見えてしまうのである。
 映画が映画であることをやめ、ひたすらことば、ことば、ことばを追いかける。その結末。男は長い長い手紙が、実は妻が娼婦に頼んで書いてもらったものだと知る。それは、妻が、男が日本の幻の女を追い求める情熱で、妻のこころを探してもらいたい、追いかけてきて、とせつせつと訴える手紙だったのだ。主役は、実は男ではなく、男を待ち続ける女だった--とこの映画は最後の最後でどんでん返しのようにして明らかにする。
 これは、ひどい。真ん中のセックスシーンでそれが予言されているとはいえ、これはあまりにもひどい。映画として、あきらかな反則である。
 男は、妻こそが、日本の謎めいた女、こころを隠して、思いを燃え上がらせる神秘的な女、理想の女だったということを最後の最後に知る。納得する。ここに、西洋の男の夢が託されているのかどうか、わからないが、一方的に男の視線と、ことばだけで、そういう世界を浮き彫りにしても、映画にはならない。女の肉体をもっとていねいに映像化し、そこから男のわがままを浮かび上がらせるようにしないと映画ではない。
 監督の描きたいことはよくわかる。そして、よくわかるからこそ、そんなものは映画ではない、と私は思う。映画とは、監督の描きたいもの(ストーリー、意味)を超えて、映像がかってに暴走するものである。ストーリーと意味を超越する映像、それに音楽が加わってこそ、映画である。あのシーンが好き、あのときの主人公のようにかっこよく動きたいというような欲望を呼び起こすものこそ映画である。あの映画は、こういうストーリーでした。監督の思想は、こういうふうにことばで要約できます--というような作品は映像作品とは言えない。
 見終わった瞬間に腹が立つ映画である。

コメント (1)
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