詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

阿部嘉昭『昨日知った、あらゆる声で』(その2)

2008-02-05 11:02:04 | 詩集
  阿部嘉昭『昨日知った、あらゆる声で』(その2)(書肆山田、2008年02月10日発行)
 阿部嘉昭の声は清潔である。ことは「文体」が清潔である、ということでもある。「文体」が鍛えられている。書き込まれ、書き込むことによって、無駄がそぎ落とされ、息がすっとすばやく動く。息継ぎに無駄がないのだ。
 詩集のタイトルになった「昨日知った、あらゆる声で」。

私は殊更小さな実を選んで啄む
黒炭の沈んだ腸にそれで星が数滴光る
私は殊更長い点滅を選んで見耽る
明日ハ自我ヲ暗渠ニ音信セネバナラヌ

 この文体の基礎には漢文がある。漢文の口調、漢詩の呼吸がある。私は漢文を習ったことがないので、つぎに書くのは文法的に間違っているのだが、阿部の作品の第1連を漢文風に(?)してみると、七言絶句(?)になる。

殊更私選啄小実
黒炭沈腸星数滴
殊更私選見長光
明日私音信暗渠

 2行目の「光る」を3行目の「点滅」のかわりにつかってみた。そのことばは互いに互いのことばを呼吸し合っている。
 1行目と3行目は、いわば対句である。向き合っている。この構造も漢詩の構造である。ことばが互いに呼吸し合うことで、そこに遠心と求心、凝縮と開放が生まれ、その呼吸のリズムが宇宙的にひろがる。そういう漢詩の呼吸が、ここにはある。
 「小さな実」と「星」、「小さな」と「長い」、「星」と「点滅」、「黒炭」と「暗渠」、「腸」と「暗渠」--そういうことばの呼吸が、むりなく互いにまじりあい、それ自身の言語の枠を破ってひろがって行く。詩が、その瞬間にはじまる。
 どの行もすばらしいが、私は特に2行目が好きだ。

黒炭の沈んだ腸にそれで星が数滴光る

 腸、内臓の闇を「黒炭」が強調するとき、その「黒」は夜空の黒そのものとなり、自然に「星」を呼び込む。「数個」ではなく「数滴」と数えるときの単位をかえてあるのも、とてもすばらしい。単位をかえるだけで、そこには突然の出合いが生じる。多くのひとが定義しているように、詩とはありえないものの突然の出合いのことであるが、そういう出合いを、こういう単位に隠して表現できるのは鍛えられた文体だからである。その「数滴」には1行目の「小さな実」の果汁のイメージもある。果実は小さくても、小さいなりに果汁を持っている。それが啄ばまれ、砕かれ、のどを通り、腸にたどりつく。その、小さな滴り。これは、やがて「暗渠」にもつながっていく。
 あらゆることばが独立しながら、なお別なことばのなかへと侵入し、そこで鮮やかによみがえる。

 散文というのは(私は森鴎外を思い浮かべるのだが)、ことばは次々に新しいことばへ乗り移っていって運動するのだが、詩は、そうではなくて、互いに呼吸し合うのだ。散文は、1行目からはじまり最終行へとつづく運動だが、詩は最終行までゆかなくてもいい。どこで中断しても詩なのだ。ことばが呼吸し合い、そこから宇宙がひろがるときが詩なのである。
 と、書きながら、実は私はほかのことも考えている。感じている。
 阿部のことばは、「漢詩」のほかに「散文」の要素に鍛えられているところがある。「散文」を書くことで身につけた筋肉のようなもの、一点に止まるだけではなく、一点からはじまりどこかへ動いていってしまう。いや、動いて行くことができる。そういう力を持っている。
 阿部の書く詩は1連だけを取り出して詩として味わうことができるが、その濃密なことばの運動は1連では終わらず、永遠と思えるくらい長くつづくのである。最初に七言絶句と書いたが、それは絶句ではなく、とても長い。
 しかし、長いけれども、だらだらしない。
 ことばとことばは互いに呼吸し、侵入し合うが、それはもたれあわない。深く呼吸し、互いに自分の呼吸を新しくしたら、もう、さっさとそのことばを捨ててしまう。そういう未練のなさというか、さっぱりしたものが阿部のことばにはある。ことばを大切にする一方、ことばを捨てることに対して阿部は平気である。このさっぱりした感じが、阿部の文体を清潔にしている。

 詩集の最後に阿部の略歴、というか、これまで書いてきた本のタイトルが並んでいる。申し訳ないが、私は一冊も読んだことがない。読んだことがないが、そのタイトルを実ながら感じたのは、あ、阿部はちゃんと「散文」をくぐってきたのだ、ということだ。散文を書くときの呼吸と詩を書くときの呼吸、あるいは散文でつかう筋肉と詩でつかう筋肉、散文でつかうのどと詩でつかうのど、さらには散文でつかう耳と詩でつかう耳は違ったものである。そういうことを阿部は体得した上で、詩を書いている。阿部のことばの基礎には散文があって、それが現在の詩の流通している不純物(--とはいっても、それが不純物であることが一方で魅力なのでもあるけれど)を洗い落としているのである。
 散文、それも漢文で鍛えられた散文意識と詩の融合が阿部のことばの特徴なのかもしれない。この文章の途中で、私は、ふと森鴎外の名前を書いてしまったが、どこかで森鴎外のような鍛えられた文体につうじるものが阿部のことばにはあるのだろうと思う。

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コメント (2)
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