ビーキアホゥ―詩集脇川 郁也書肆侃侃房、2007年11月30日発行このアイテムの詳細を見る |
読んだあと、しばらく考え込んでしまった。ことばを読んだ、という感じがしないのである。詩集は前半と後半と、2種類の詩で構成されている。前半は死んだひとのことがかいてある。後半はそうではない。というようなことがぼんやりわかるが、こういう感想はもちろん詩の感想にすらなっていない。ことばがすり抜けて行ってしまうのだ。
すり抜けていくか。たぶん脇川は驚くかもしれないが、
父や兄を亡くして
ぼくらはあんなに泣いたのに
(「後回し」)
しばらくして妹は亡くなった
(「妹の亡霊」)
この行の中に出てくる「亡くして」「亡くなった」が象徴的なのだが、私には脇川のことばが非常に遠いのだ。書いてあることはわかる。ことばに対して「ていねい」な態度をもっていることもわかる。しかし、その「ていねい」さが非常に遠い。脇川は私とはまったく違ったことばを生きている、という感じがしてしまう。
私は父や兄、妹に対しては「亡くして」「亡くなった」ということば出てこない。「死んだ」ということばしか出てこない。「亡くなった」というと他人になってしまう。それも、どちらかというと親密ではない他人だ。親友の肉親が死亡したときならば、最初は絶対に「死んだ」である。そして、あとから「亡くなった」とことばがかわってゆく。「死んだ」ということばの強さ、衝撃が、「亡くなった」では、私の場合、完全に消えてしまうのである。
脇川のことばには「親密感」というものが欠如している。そのために「ていねい」に感じられる。それは、別なことばで言えば「よそよそしい」ということである。脇川の詩は、どれもていねいである。しかし、よそよそしい。だから、私をすり抜けて行く。
他人にこころを許さないひとでも犬には親密なひとがいるものだが、脇川は飼っている犬にさえよそよそしい。いや、犬さえが、脇川のよそよそしさを感じ取って、体をすりよせてくることがないようだ。
犬は芝生に伏せたまま
ぼくの身体がつくる影のあたりで
さかんに臭いをかいでいる
(「夜の桜に」)
さらに象徴的なのが詩集のタイトルともなっている「ビーキアホゥ」という作品だ。ニューヨークで道を訪ねる。男がそれにこたえてくれる。その様子をことばにしたものだ。そのなかほど。
拙い英語でひとしきり話していると
早めにホテルに戻ったほうがいい、と男がいう
ああ、そうだね
ありがとう、と返して別れた
蛾のいった最後のことばだけが
ぼくの耳に残った
「ビーキアホゥ」
日本では聞き慣れぬことばのように思った
中学校で学んだ程度の語学力で
地球のヘソのようなこの街にやって来た
小柄な東洋人に
彼は何に気をつけろ、といったのか
「蛾」とは脇川の質問にこたえてくれた男である。「ビーキアホゥ」は脇川が聞き取った「be careful」をカタカナ表記したものだ。
ことばは、単にそのことばの持っている「意味」以外のものを含む。「気をつけて」はたしかに「気をつけて」なのだろうが、そこにどんな「感じ」がこめられていたかは、脇川にしかわからない。
脇川は、その音のニュアンスを詩には書き留めていない。それは脇川が「気をつけて」という「日本語化」した「意味」しか聞き取っていないということかもしれない。それがどんなニュアンスを持っているか、それを聞き取っていないということ、「生活」のことばとして聞き取っていないということかもしれない。
少し脱線して「日本語」で説明すると。
たとえば飛行機に乗って帰る知人と別れるとき「それじゃ、気をつけて」は「さよなら」とほぼ同じである。飛行機に乗ってしまえば、客が「気をつける」べきことなど、ほとんどない。何もできない。それでも私たちはしばしば「気をつけて」という。「無事に到着することを祈っています」というようなニュアンスもあるかもしれないが、それははじめての飛行機の旅だとか、事故かあった直後のときのニュアンスであって、普通は「さよなら」であり、あるときは「さあ、はやくさっさと帰れよ」でさえあるのだ。
ニュアンスが聞き取れない(いまのことばでいえば、「空気が読めない」)のは、脇川と男のあいだに「親密感」がないからである。親密なものを感じる力が脇川には欠けているのではないか。そんなことすら思った。よそよそしさが引き起こす「空気」も脇川は感じることがないのかもしれない。
脱線した部分で、少し書いたのだが、私が想像するに、男は「気をつけて」というニュアンスで「be careful」と言ったわけではないだろう。「おれは本を読んでいるんだ。酔っぱらいと話しているひまはない。さっさと帰れよ。おれになんかかまうなよ」と言ったのである。英語が通じる相手なら、そうはっきり言うだろう。英語があまり通じないと判断したから、誰でもわかることばで、簡単に言っただけなのである。
ことばは「親密感」といっしょにある。親密であるひとに対してと、親密ではないひとに対して言うときでは、同じことばでも「辞書に書いてある意味」とは違う「意味を超える感情・ニュアンス」があるのだ。同じ「おれは本を読んでいるんだ。酔っぱらいと話しているひまはない。さっさと帰れよ。おれになんかかまうなよ」であっても、知らないひとにいうときと、知っているひとに言うときでは、声の調子も違えばニュアンスも違う。漢詩には、酒を持って訪ねてきた友人に「おれは酔ったからねる、あんたらはもう帰れ」と親しみをこめて言う詩さえあるではないか。
ことばをもっと親密なものとして書いてもらいたい、と思った。