詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北爪満喜「SU I CA 移り映るから」

2008-02-20 10:24:55 | 詩(雑誌・同人誌)
 北爪満喜「SU I CA 移り映るから」(「フットスタンプ」15、2008年02月29日発行)

 前半部分がとても美しい。

硝子に肩を寄せてがら
友達の声に耳をそばだてると
言葉が硝子を通るとき ときどき文字が光って灯る

SUIREN SUIZOKUKAN SUZUMUSI SUISEI-NO-O
(スイレン)  (スイゾクカン)   (スズムシ)   (スイセンノオ)

友達の声を聞きながら
硝子の表面を光って流れる文字を眺めて拾い読む
アルファベット表示になって文字が光って映るのは
ニホンゴが母国語でない彼女の声も同じように点滅するため

 「友達」「ニホンゴを話せる外国の女の子」と「私」。その3人の会話の様子なのだが、「ニホンゴを話せる外国の女の子」の存在がことばを少し変化させる。その不思議な変化を音と把握するだけではなく、同時に文字として把握する。
 3人の関係、そのなかでのことばの変化は説明しようとするととても複雑になるだろう。感覚を具体的に表現するのはとても難しいことだ。その困難な部分を北爪は、ここでは軽々と超えている。その軽さ、スピードがとてもいい。

聞き取れる SUIREN SUIZOKUKAN
水滴のように響く SUZUMUSI SUISEI-NO-O
軽い呼吸が続いてゆく

 SUIREN SUIZOKUKAN SUZUMUSI SUISEI-NO-Oのなかにある「す」(そして「すい」)の音を引き継いで「水滴のように響く」が動きだすのだが、この輝きが「硝子」とも響き合う。音としてではなく「光」(「光って映る」ということばが先にある)として反射する。聴覚と視覚が融合する。(この融合は、すでに書かれてもいるけれど。)そして、この「水」を手がかりに「呼吸」が呼び出される。
 「硝子」のなかから、世界が「水」のなかへ移っていく。この変化が軽くて、とても気持ちがいいのである。

話す友達の唇がみたくて 硝子に額を押しつける
友達はすぐに私に気づいて
ひとつ深く息を吸うと
やわらかいピンクの唇を丸く大きく開けながら
ほか見て と言うように
口から光を放ちはじめる

まぶしい光が口から出ると
テーブルの表面を揺れながら映像を少し結びはじめる

 北爪は少女の年代ではないのだが、このきらきらした会話(内容はわからないが、輝きだけははっきりとわかる)と、そこからふいにあらわれる肉体の感じが、なんとも色っぽい。ロリータっぽく(?)、ちょっとわくわくする。北爪たちが「子供」(少女、処女)にかえっていく感じ、北爪がこの詩でつかっている表現を借りれば「移っていく」感じがとても自然で美しい。
 実際、このあと3人は「子供」になってゆく。「はしゃぐ子供になっていた」という行が後半に出てくる。

 ことばをつかって、というと少し変ないい方になるが、ことばに耳を澄まし、同時に目を凝らしてことばを見る。その肉体のなかで、ことばが何かを越境する。肉体のなかで感覚が融合し、いま、ここにない世界を呼び寄せる。そのここにない世界を、もういちどことばを使って定着させる。
 --あいまいなことしか書けないけれど、(どう書いていいかわからずに書くしかないのだが)、ここには、ことばに出会うことではじまる詩がある。ことばに耳を澄まし、感覚を解放し、肉体の奥に踏み入り、まだことばになっていないものを、ことばを借りてひっぱりだそうとする詩のよろこびがある。音楽がある。はつらつとした躍動、こどもがもっている柔軟な躍動がある。

コメント (1)
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