詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

二月花形歌舞伎(博多座)

2008-02-11 21:32:27 | その他(音楽、小説etc)
二月花形歌舞伎(博多座、2月11日昼の部)

 「義経千本桜」(渡海屋銀平実は新中納言知盛 獅童、女房実は典侍の局 七之助、義経 亀治郎、弁慶 男女蔵)
 動きがとても若々しい。若い役者なのだからあたりまえなのかもしれないが、ちょっと面白みに欠ける。クライマックスの獅童の宙返りなど、軽々としていて、潔い死といえばいえるのかもしれないけれど、さっぱりしすぎていて役者の肉体を見ているという感じがしない。役者にしかできない動き、ああ、美しいという感じが私にはしない。
 獅童の声は、私にはどうもなじめない。
 七之助の声は潤いがあっていいなあ、と思う。女房のときのせりふまわしか特に耳に心地よく響いた。芝居は役者の声にまず引きつけられる。声のいい役者はいいものだ。

 「高杯」(次郎冠者 勘太郎、高足売 七之助、太郎冠者 國矢、大名 亀鶴)
 とても楽しかった。勘太郎、七之助のやりとりが、どうせ芝居、という軽い感じで、とても明るい。明るいから、意気投合して、次々に脱線していく感じがのびやかになる。高下駄のタップダンスへの移行が、すでにこの軽み、明るさ、意気投合(他人を巻き込んでゆく感じ)にあらわれていて、ほんとうに楽しい。
 もちろん勘太郎の高下駄タップダンスも楽しい。体が若いからリズムが軽快である。奇妙ないい方にあるかもしれないが、次郎冠者の無知(高杯を知らないこと)と、肉体の限界を知らないこと(肉体そのものに限界があることへの無知)が、若さというもののなかで融合し、「無知」をバネに「芸能」の枠を逸脱してゆく--歌舞伎なのに、流行のタップを取り入れていく、という精神が、勘太郎の若い肉体のなかではつらつと輝いている感じがする。
 タップの「音」、その足さばきも楽しいが、タップでありながらタップを逸脱する瞬間、脱げた高下駄を踏み外す動きのしなやかな軽みが、これも「お遊び」ですよ、芸で見せているだけなんですよ、という感じでうれしい。タップの下駄を踏み外すことで、その瞬間に、歌舞伎の伝統の足さばきを見せるところが楽しい。
 芝居というのは、そこで役者の肉体が動いて、その動きが観客の肉体の奥に眠っている肉体の感覚を呼び覚ます瞬間に輝くものだと私は思っているが、この高下駄の踏み外しの動きなどが、それにあたる。
 「春」を先取りした楽しさ、桜の季節には桜の下でタップダンスもいいかも、などと思った。

 「団子売」(杵造 愛之助、お臼 亀治郎)
 私は歌舞伎の伝統や、そこで演じられていることについてほとんど知らず、ただ単にそこで役者が動いているということだけを見ているのだが、この「団子売」は私には奇妙に見えた。役者の肉体の若さが、どうも「夫婦」のやりとりの感じにそぐわない。私の感じでは、もう何年も夫婦をやってきた男と女が、ちょっと浮かれて(年を忘れて)、若い男女の口説きあいやってみせる--という印象があるのだが、若い役者が演じると、ほんとうは年をとっているのだけれど、若い男女のふりをする(若い男女のまねをする)という感じ、セックスへの誘い、という感じがしない。若い男女をまねるというワンクッションがない。口説いているという感じが、ちょっとしないのである。私だけの印象かもしれないが。亀次郎のつやっぽさが熟年のつやっぽさ(男のいたずら心を受け入れる余裕)のようには感じられず、若い男を誘っているという感じの色気に見えてしまう。
 これはほんとうはどういう作品なのだろう、と、ふと感じた。

コメント
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