ババ、バサラ、サラバ小池 昌代本阿弥書店、2008年01月16日発行このアイテムの詳細を見る |
今回の詩集には知らないひとが突然登場する。たとえば、「箱」。その冒頭。
箱
空き箱
縦
横
深さ
この深さというものが
金原時男にとっては、とりわけ大切なものだ。
この「金原時男」が誰なのか、何者なのか、さっぱりわからない。わからないことを利用して、小池は、そこに「わかる」ものを書き込んでゆく。しかし、「わかる」といっても、本当は「わからない」ものである。「わからない」にもかかわらず、「金原時男」という「わからない」ものがあるので、それに比べると、なんだか「わかった」ような気持ちにさせられるのである。
この深さというものが
金原時男にとっては、とりわけ大切なものだ。
「金原時男」が誰で何をしているか「わからない」。「金原時男」が「わからない」にもかかわらず、「金原時男」が「深さ」と「とりわけ大切なものだ」と感じていることは「わかる」。
この「わからない」と「わかる」の関係がおもしろい。人間は誰でも「わからない」ものには関心がない。「わかる」ものの方へ動いてゆく。
詩のつづき。
あまりに浅いと何も入らない。しかし深すぎても、ものがおぼれる。
「深さ」を重視する「金原時男」。その理由。「あまりに浅いと何も入らない」。これは誰もが経験することである。だから「わかる」。完全に「わかる」。疑問の余地がない。そんなふうに安心させておいて、
しかし深すぎても、ものがおぼれる。
これはなんとなくわかったような、わからないような感じである。なぜか。「おぼれる」ということばは普通はこういうときにつかわないからである。水に溺れる。「溺れる」という字にはサンズイがある。水に関係している。「箱」の「深さ」は水には関係がない。だから、ここで「おぼれる」ということばをつかうのは本当は正しくはないかもしれない。正しくはないかもしれないが、その正しくはないかもしれないことが、奇妙に切実に響いてくる。「論理」(頭の思考)としてではなく、肉体のなかにある何かをひっぱりだす。ああ、そうなんだ、深い箱の底で「もの」は「おぼれている」のだ、と思ってしまう。「もの」になってしまったような、不思議な気持ちになる。「もの」の気持ちを「金原時男」はよくわかっている。「もの」のことまで、人間のように感じることができる人間なのだ--と納得してしまう。
さらに作品は追い打ちをかける。
「箱の底にものをいれ、その底からものを引き上げる、そのとき、腕が感知する、
ある距離感が大切なんだ」
なぜ、「金原時男」が「深さ」を大切にしているか、完全に「わかった」という気持ちにさせられる。
しかし、ここには不思議なことがある。
「おぼれる」というなにげないことば、だれもが知っていることばを起点にして、ことばが大胆に変わっている。「感知する」。こういうことばを、普通は、口語ではつかわない。「感じる」と声にする。しかし、小池は「感知する」と書く。「感じる」ではないのである。「感じる」だけでは、そこには「頭」が入ってこない。「知」が侵入してくることで「頭」が動きはじめる。
肉体をかきわけ、「おぼれる」というあいまいな(辞書にある定義、流通しているでの定義ではとらえられない感じ)ところをくぐり、そのあとで「感知」という肉体と「頭」が一緒になった世界へ戻る。
こういうことを経験すると、人間は(読者)はなんとなく安心する。ただ「わけのわからない」どこか、肉体の奥にひそめんでいることばにならない世界(ことばにすることをやめてしまうことで納得している世界)へどこまでも入っていくのではなく、なんとなく「現実」に戻った感じ、冷静になった感じがするのである。
「距離感」も同じである。ほっとする。普通のことばにもどった、普通のことが書いてあるんだ、という気持ちになるからである。
ところが。
実は、まったく「わからない」ままなのである。「わかった」と安心させながら、小池は「わからない」ものの内部へ内部へと入っていく。「頭」で「わかった」と安心させて、さらに「あいまい」なもの、ことばにならない世界へとじわりと進んでゆく。そのために、いったん安心させただけなのである。
時男は空き箱を見ると、ぞくっとする。
若いころからの癖なので直らない。
「時男」が「ぞくっとする」対象が、たとえば「若い女」だったら、それはなんでもないことかもしれない。そこからどんなタイプの女がいいか、というような話をすることもできる。たとえば、「金原時男」と知り合いだったと仮定してのことだが。
ところが「空き箱」となると、おそらく誰も「金原時男」と会話できない。話で盛り上がることができない。そんな感覚があるということすら「わからない」。(納得できない。)「わからない」のに、その「わからなさ」に直面する前に、「おぼれる」を肉体と「頭」で理解してしまったために、これから先は、「わかっている」こととして「金原時男」についてゆくしかない。小池のことばについてゆくしかない。
「わからなさ」こそが、小池がこの詩集で追い続けているものである。
「わからない」ものをどんなふうに一瞬でもいいから「わかる」ように書くか。「わかる」と錯覚させて、不可思議な世界へ入っていくか。「わからない」まま、人間は、そういうものをどうやって把握し直すか。--そういうことが「おぼれる」の一語に凝縮している。
*
あまりに浅いと何も入らない。しかし、深すぎても、ものがおぼれる。
この1行は、「おぼれる」ということばだけでも詩になっているが、(詩とは、既成のことばを耕し直し、新しくすることだが)、これを2行にわけて書かなかったところが、小池のこの詩の、もうひとつの特徴をあらわしている。
「おぼれる」を目立たせたいなら、この1行は2行に分けた方がいい。しかし、小池は2行には分けない。あくまで、「あまりに浅いと何も入らない」という意識とつなげて書く。その意識をひきずったまま「おぼれる」ということばを登場させる。この、ひとつづき、一連の動きがあるからこそ「おぼれる」がすーっと読者の体のなかへ入ってくる。2行に分かれていれば、印象が強くなる分だけ、そこでつまずくということがあるかもしれない。「おぼれる」? なぜ、そんなことばをつかう? そう思ってしまうかもしれない。1行としてひとつづきになっているために、疑問をさしはさむ時間がないのである。
特に、それまでの1行1行が「箱/空き箱/縦/横/深さ」という具合に、とても短く簡単に理解できるために、そのスピードのなかで「あまりに浅いと何も入らない。しかし、深すぎても、ものがおぼれる。」を一気に読んでしまう。
読者を誘い込む工夫がしっかりと重ねられている。
ことばを自在に制御しながら、「わかる」「わからない」を行き来し、「わからない」の深部へ読者を引き込む。しかも、非常におだやかに。夢中になってしまう詩集である。
*
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