詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小池昌代『ババ、バサラ、サラバ』

2008-02-13 10:58:43 | 詩集
ババ、バサラ、サラバ
小池 昌代
本阿弥書店、2008年01月16日発行

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 今回の詩集には知らないひとが突然登場する。たとえば、「箱」。その冒頭。


空き箱


深さ
この深さというものが
金原時男にとっては、とりわけ大切なものだ。

 この「金原時男」が誰なのか、何者なのか、さっぱりわからない。わからないことを利用して、小池は、そこに「わかる」ものを書き込んでゆく。しかし、「わかる」といっても、本当は「わからない」ものである。「わからない」にもかかわらず、「金原時男」という「わからない」ものがあるので、それに比べると、なんだか「わかった」ような気持ちにさせられるのである。

この深さというものが
金原時男にとっては、とりわけ大切なものだ。

 「金原時男」が誰で何をしているか「わからない」。「金原時男」が「わからない」にもかかわらず、「金原時男」が「深さ」と「とりわけ大切なものだ」と感じていることは「わかる」。
 この「わからない」と「わかる」の関係がおもしろい。人間は誰でも「わからない」ものには関心がない。「わかる」ものの方へ動いてゆく。
 詩のつづき。

あまりに浅いと何も入らない。しかし深すぎても、ものがおぼれる。

 「深さ」を重視する「金原時男」。その理由。「あまりに浅いと何も入らない」。これは誰もが経験することである。だから「わかる」。完全に「わかる」。疑問の余地がない。そんなふうに安心させておいて、

しかし深すぎても、ものがおぼれる。

 これはなんとなくわかったような、わからないような感じである。なぜか。「おぼれる」ということばは普通はこういうときにつかわないからである。水に溺れる。「溺れる」という字にはサンズイがある。水に関係している。「箱」の「深さ」は水には関係がない。だから、ここで「おぼれる」ということばをつかうのは本当は正しくはないかもしれない。正しくはないかもしれないが、その正しくはないかもしれないことが、奇妙に切実に響いてくる。「論理」(頭の思考)としてではなく、肉体のなかにある何かをひっぱりだす。ああ、そうなんだ、深い箱の底で「もの」は「おぼれている」のだ、と思ってしまう。「もの」になってしまったような、不思議な気持ちになる。「もの」の気持ちを「金原時男」はよくわかっている。「もの」のことまで、人間のように感じることができる人間なのだ--と納得してしまう。
 さらに作品は追い打ちをかける。

「箱の底にものをいれ、その底からものを引き上げる、そのとき、腕が感知する、
ある距離感が大切なんだ」
 
 なぜ、「金原時男」が「深さ」を大切にしているか、完全に「わかった」という気持ちにさせられる。
 しかし、ここには不思議なことがある。
 「おぼれる」というなにげないことば、だれもが知っていることばを起点にして、ことばが大胆に変わっている。「感知する」。こういうことばを、普通は、口語ではつかわない。「感じる」と声にする。しかし、小池は「感知する」と書く。「感じる」ではないのである。「感じる」だけでは、そこには「頭」が入ってこない。「知」が侵入してくることで「頭」が動きはじめる。
 肉体をかきわけ、「おぼれる」というあいまいな(辞書にある定義、流通しているでの定義ではとらえられない感じ)ところをくぐり、そのあとで「感知」という肉体と「頭」が一緒になった世界へ戻る。
 こういうことを経験すると、人間は(読者)はなんとなく安心する。ただ「わけのわからない」どこか、肉体の奥にひそめんでいることばにならない世界(ことばにすることをやめてしまうことで納得している世界)へどこまでも入っていくのではなく、なんとなく「現実」に戻った感じ、冷静になった感じがするのである。
 「距離感」も同じである。ほっとする。普通のことばにもどった、普通のことが書いてあるんだ、という気持ちになるからである。

 ところが。

 実は、まったく「わからない」ままなのである。「わかった」と安心させながら、小池は「わからない」ものの内部へ内部へと入っていく。「頭」で「わかった」と安心させて、さらに「あいまい」なもの、ことばにならない世界へとじわりと進んでゆく。そのために、いったん安心させただけなのである。

時男は空き箱を見ると、ぞくっとする。
若いころからの癖なので直らない。

 「時男」が「ぞくっとする」対象が、たとえば「若い女」だったら、それはなんでもないことかもしれない。そこからどんなタイプの女がいいか、というような話をすることもできる。たとえば、「金原時男」と知り合いだったと仮定してのことだが。
 ところが「空き箱」となると、おそらく誰も「金原時男」と会話できない。話で盛り上がることができない。そんな感覚があるということすら「わからない」。(納得できない。)「わからない」のに、その「わからなさ」に直面する前に、「おぼれる」を肉体と「頭」で理解してしまったために、これから先は、「わかっている」こととして「金原時男」についてゆくしかない。小池のことばについてゆくしかない。

 「わからなさ」こそが、小池がこの詩集で追い続けているものである。
 「わからない」ものをどんなふうに一瞬でもいいから「わかる」ように書くか。「わかる」と錯覚させて、不可思議な世界へ入っていくか。「わからない」まま、人間は、そういうものをどうやって把握し直すか。--そういうことが「おぼれる」の一語に凝縮している。



あまりに浅いと何も入らない。しかし、深すぎても、ものがおぼれる。

 この1行は、「おぼれる」ということばだけでも詩になっているが、(詩とは、既成のことばを耕し直し、新しくすることだが)、これを2行にわけて書かなかったところが、小池のこの詩の、もうひとつの特徴をあらわしている。
 「おぼれる」を目立たせたいなら、この1行は2行に分けた方がいい。しかし、小池は2行には分けない。あくまで、「あまりに浅いと何も入らない」という意識とつなげて書く。その意識をひきずったまま「おぼれる」ということばを登場させる。この、ひとつづき、一連の動きがあるからこそ「おぼれる」がすーっと読者の体のなかへ入ってくる。2行に分かれていれば、印象が強くなる分だけ、そこでつまずくということがあるかもしれない。「おぼれる」? なぜ、そんなことばをつかう? そう思ってしまうかもしれない。1行としてひとつづきになっているために、疑問をさしはさむ時間がないのである。
 特に、それまでの1行1行が「箱/空き箱/縦/横/深さ」という具合に、とても短く簡単に理解できるために、そのスピードのなかで「あまりに浅いと何も入らない。しかし、深すぎても、ものがおぼれる。」を一気に読んでしまう。
 読者を誘い込む工夫がしっかりと重ねられている。
 ことばを自在に制御しながら、「わかる」「わからない」を行き来し、「わからない」の深部へ読者を引き込む。しかも、非常におだやかに。夢中になってしまう詩集である。



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タタド
小池 昌代
新潮社

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