詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小笠原茂介『青池幻想』

2008-03-11 10:36:39 | 詩集
青池幻想
小笠原 茂介
思潮社、2008年02月29日発行

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 「遺言」という作品が収録されている。この作品はとても好きである。亡くなった妻への愛が感情というより「肉体」として伝わってくる。魂がいまも残っている、というのではなく、肉体そのものがまだ、いま、ここに存在している。そういう感じで、愛が伝わってくる。(2007年03月22日の「日記」にすでに書いた。) 他の作品も同様である。 小笠原には亡くなった妻の魂が見えるだけではなく、肉体そのものが見える。手触りとして見える。手触りとして、というのは、その肉体が小笠原のことば、視線などに反応して動く--その動きとして見える、ということである。 「帽子」の全行。
夜明け近く 階段を降りると朝子の寝室の扉の下方から 薄明かりが漏れているいつ帰って来たのかほっとして扉を開けると朝子が姿見のまえで帽子を選んでいる見慣れない帽子のうえにまるで生きもののような鶯色の小鳥が蹲り薄黄の蝶か花かが群れ 震えているぼくに気づいて振りかえりこれから遠くまで旅行するので全天候型の帽子にするのだという開け放たれたままの窓から霧が入り込みカーテンの白いレースが揺れる--食事の支度をする暇なかったから 自分でしてね冷たくいうわりには暖かな笑顔に木立の暗い緑が影を落としている
 「冷たくいうわりには暖かな笑顔に」という1行に魅了される。 それに先立つ「幻」には小笠原の妻を亡くした悲しみが反映されている。遠く旅立つ妻。その妻はどごで、どんな天候であっても美しくいてほしいという祈りのようなものが感じられる。そういう祈りのあとに、
冷たくいうわりには暖かな笑顔に
 この「冷たくいう」がいい。日常の生活ではすべてのことは無意識に規則正しくおこなわれる。その規則正しさは退屈だけれど、退屈ななかに、蓄積された時間の美しさがある。いつも同じ時間を生きてきたという美しさ、むだのなさ、のようなものがある。それは時には「冷たい」。その「冷たさ」を正確にことばにしているところにひかれる。 さらに「冷たくいうわりには」の「わり」と「には」がいい。そういう日常の繰り返しのなかに、いつでも繰り返しではないものが混じる。一度として同じではない。繰り返されるからこそ、違っている。その違いに気がつくのは、そういう繰り返しをていねいに生きている人間だけである。繰り返しだからといって手を抜いて生きると、その少しの違いの美しさ--少しの違いの、こころの美しさ、こころを動かすことの美しさがわからない。 「わり」「には」。深く結びつきながら、小笠原のこころの動きを伝える。しかし、その動きは小笠原の動きであって、実は小笠原の動きではない。ぴったり亡くなった妻の動きである。妻のほんの少しの動き、こころの動かし方が、そっと小笠原によりそい、重なる。 あ、これが愛なんだ、と気づく。 積み重ねられた愛。積み重ねることの美しさなのだと気がつく。  そして、この積み重ねてくることで美しくなったものは、いまは、ここにはない。けれども、ここにはないにもかかわらず、常にここにある。--こんなことを書くと矛盾だが、ここにないがゆえに、それはけっしてかわらないもの、永遠として常に存在する。 それは、たとえて言えば、花火大会の花火を見るときにのぼった丘のようなものである。「花火」の最終連。
丘は変わらずにあるがもう行くこともない花火の夜にはひとり庭に出る丘が風邪を送って寄こす心に沁みる涼やかな風である花火の匂いも籠もっている
 いつでも、なんでも、そうなのだと思うが、「変わらずにある」ものが、揺れ動く人間のこころを、かなしく、うつくしく、切なく浮かび上がらせる。 妻との繰り返し繰り返し繰り返した日々。その愛。すべてが変わらずにある。だからこそ、悲しく、せつない。その悲しさ、せつなさが美しい。  その美しさが結晶した「一粒の砂」。その後半。
朝子が一本の光る絹糸のうえを渡っている滑るように 揺れ踊るように 糸の光が失せぬかぎりは糸はどこまでもいつまでも続くとみえる朝子の光も消えぬとみえる
*  もう1冊読むなら。
夜明けまえのスタートライン
小笠原 茂介
思潮社

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