詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小松弘愛「かたち」

2008-03-27 11:27:23 | 詩(雑誌・同人誌)
 小松弘愛「かたち」(「兆」137 、2008年03月10日発行)
 アンソロジーの形で発表されている。詩集『どこか偽ものめいた』(1995年)に収録されている作品である。1行、わからない行がある。(短いので全行引用する。)

体育館で暮らす写真を撮っていたとき
ひとりの女生徒が写真屋さんに催促する
「 早く撮って! 花の命は短いから」
笑いのうちにフラッシュがたかれ
一瞬の時が燃え尽き
生徒たちは教室にかえっていった

窓の外 晴れわたった空に
わすれのもののように浮かんでいる
ひとかけらの白い雲
しばらく眺めていると
雲は少しずつかたちを変え
白い魚(うお)のようなものになり
口を「ぽ」と発音したようにあけて
ゆっくりと土佐湾のほうへ泳ぎはじめる

わたしは窓のそばを離れる
魚のかたちが崩れないまえに。

 2連目。「白い魚(うお)のようなものになり」。この行の前で私は立ち止まってしまう。なぜ? なぜ「魚」に「うお」というルビが必要? なぜ、「さかな」ではいけない?
 「しろい」と発音したあとでは、私は「さ」の方が発音しやすい。「し」は「さ行」に含まれるけれど「S」+「I」ではなく「∫」+「I」だから、ほんとうは同じ音をひきずるわけではないが、「さかな」の方が私には発音しやすい。「しろい」+「うお」では母音が「いうお」とつづき、私にとっては読みにくいからかもしれない。
 「白いうお」も「白いさかな」も「意味」は同じであるが、ことばには「意味」を超えるなにかがいつも含まれていて、その「意味」をはみ出した部分がうまく重ならないと、私はいつも、なぜ?と立ち止まってしまう。
 
 単純に言えば、私と小松が同じ日本語を話しているように見えてもほんとうはまったく違う日本語を話しているという「証拠」のようなものが、この行にはひそんでいるということだと思う。

 少し話は脱線するのだが……。
 先日亡くなった詩人、山本哲也の詩を読んだとき、私は「あ、この人だけ九州弁で書いていない」と驚いた記憶がある。私はいま九州に住んでいるが、九州の生まれではない。九州へ来て、いろいろな詩人の作品を読んだが、どの詩人にも独特のことばの癖がある。それがどうしてもなじめなかった。書きことば、「標準語」のなかの「九州弁」としか言いようのないものである。(九州では、みえのふみあき、柴田基典が、山本哲也についで、九州弁を感じさせない詩人である。)あるとき、ある詩人から「山本哲也は関東の出身で、九州のひとではない」と知らされ、「あ、それで九州弁の癖がないのか」と納得した。そういう何か、一種の音の響き、リズムの違いというのは、ことばのなかにひそんでいる。たとえ「標準語」の「書きことば」であっても。

 ことばのなかには、その人が育ってきたときに自然に獲得したリズム、音の調和というものがあり、それがふいに出てくるときがある。それがたちはだかるときがある。たぶん「白いうお」といういい方のなかには、小松特有の何か(あるいは土佐人特有の何かが)あるのだと思う。
 同じ不思議な何か、思わず私が立ち止まってしまう行は、ほかにもある。最終行の「魚のかたちが崩れないまえに。」「意味」はわかるが私は、こんなふうには書かない。引用のために転写しているだけでも体のなかがむずむずしてくる。私なら「魚のかたちが崩れるまえに。」「崩れない」ではなく「崩れる」と肯定形で書く。

 なぜ、こんな、どうでもいいようなことを書いているかと言うと。

 小松は最近「土佐弁」を題材に詩を書いているが、もしかすると、小松には「標準語」に対する違和感があるからかもしれない、とふと、思ったからである。「白いうお」と書く小松。「崩れないまえに」と書く小松。そこには、一種の「共通語」(あるいは、私が共通語と信じているもの)への「異議」のようなものが含まれていて、それが徐々に拡大する形、深まる形で小松を「土佐弁」へ向かわせているのかもしれない。
 これは、もちろん私の勝手な想像であり、まったく見当違いのことかもしれないが。

 同じことばを話し、そして、こんなふうにして同じ日本語で感想を書きながらも、ほんとうは違うことばを生きている。どこかでいつも「ずれ」をかかえて人間はことばをかわしている。
 そう思うと、楽しい。
 そして、そう思うことは、この詩を読むとき、楽しさを奇妙に複雑に拡大する。
 たとえば1連目。女生徒の「ひとこと」。それは戯れの軽口であり、「花の命は短くて」ということばを踏まえながら、もとのことばを逸脱している。その逸脱が全員に共有され、「笑い」に広がる。
 ことばは「意味」を伝えると同時に、その「意味」を逸脱することができる。そして「詩」のほんとうの力は、そんなふうにして「意味」を逸脱する力がどんなことばにもひそんでいる。ことばは自由だ、ということをアピールすることにあるということを考えると、ここからひとつの「詩論」を書くこともできる。

 ことばは「意味」をから逸脱し、そこに存在しなかったものを引き寄せる。そういう可能性へ人間をひっぱってゆく。そういう「逸脱」の契機のようなものが、もしかすると「白いうお」ということば、「うお」と読ませるこだわりに隠れているかもしれない。
 ことばでは説明できない何かがあって、そのあとに、

口を「ぽ」と発音したようにあけて

 この美しい夢のような1行が誕生する。この1行がなければ、この詩はある日の愉快なエピソードをスケッチしたものに終わってしまう。スケッチであることを「逸脱」し、あ、ここに小松がいると感じさせるその1行。その1行へジャンプするための「踏み切り台」のようなものが「白いうお」の1行に隠れている、そんなふうに感じた。
 私は「白いうお」ではつまずく。しかし、小松は、それを「踏み切り台」にする。そんことを考えた。






どこか偽者めいた―詩集
小松 弘愛
花神社

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