山本哲也「帰る場所」(「現代詩手帖」2008年04月号)
山本哲也は死んだ。 3月12日。大腸ガンだった。
山本哲也は、私にとって長い間不思議なひとだった。九州の詩人なのに、詩に九州弁が感じられないのだ。私は九州の人間ではないので、九州へ来て、九州の詩人の作品を読むようになってから、いつもとまどっていた。とても奇妙なのである。詩のことばがなじめない。(他の文章もなじめない。私は多くのひとの文章を読む仕事をしているが、どうしても、これから文章を読むのだと意識しないことには、九州のひとの書いた文章が理解できなかった。大好きな柴田基典の詩でさえ、ときどき立ち止まってしまう。)ところが、唯一例外がいた。それが山本哲也だった。
そのことを私は山本哲也に話したことはない。(私が詩について語り合ったことがあるのは、九州では、唯一、柴田基典だけである。)
あるとき、田島安江と話していて、偶然その話題になった。そして、そこで私はもう一度衝撃を受けた。
「山本さんは九州の出身じゃありませんよ。たしか関東ですよ」
山本は九州の人間ではなかった。九州に長く生活しているが、最初のことばは九州のことばではなかった。だから九州弁が混じらないのである。道理で読みやすいはずである。私には山本のことばだけが、ほとんど唯一、九州で書かれている「標準語」の詩として感じられる。そして、それはたしかに「標準語」なのである。
私の書いていることは、たぶん、多くの九州のひとにはわからないことだと思う。もしかすると、九州以外のひとにもわからないかもしれない。そう思いながらも、たぶん、この機会しかないと思うので書いておく。
山本の「標準語」が他の九州の詩人のことばと違うのは、虚構への向き合い方が「標準語」なのである。どんな虚構も事実を踏まえる。現実に、日常につかわれていることばを踏まえる。架空のことばで語られる虚構はない。架空のことばで語られる嘘もない。そのときの、現実、あるいは日常への「距離」が、たぶん「九州弁」と「標準語」では違うのである。この「距離」はほとんど「感覚的」なものであって、説明がしにくい。なんとなく「九州顔」、なんとなく「京都顔」、なんとなく「北陸顔」というような、とてもあいまいなものである。あいまいだけれど、その土地その土地で共通する何か、微妙な「におい」のようなものである。
山本の虚構と現実の関係は、とても論理的である。そして、その論理は、簡単に言ってしまうと「古今和歌集」「新古今和歌集」のものである。抒情は、いったん精神をくぐりぬける。肉体そのもので抒情に触れるのではなく、精神で洗い流して提出する。その手続きが洗練されている。洗い流し方の方法が、きちんと歴史を踏まえている。「古今」「新古今」の芸術的文法を踏み外さない。
*
「帰る場所」。その1連目。
誰かと勘違いされて声をかけられた経験は誰にでもあるものかもしれない。山本にしてもそれが最初の経験ではないだろう。そして、勘違いされたとき、多くのひとは「わたしじゃありません」とこたえる。これはごく普通のことである。山本は、そんなふうにして現実・日常を出発点にしてことばを動かす。
「わたしじゃない」から出発して、ほんとうに「わたしじゃない」世界へ入って行く。「わたし」が「わたし」ではなくなる。そういうことが現実に存在する。その具体的な体験を、山本は、2連目以降で虚構を利用しながら書きはじめる。
2連目以降は、次のようにつづく。
最終連が象徴的だが、山本の虚構は、現実と虚構を往復することを前提としている。現実は常に虚構であり、虚構は常に現実である。ことばは、そのふたつを往復し、ふたつを利用することで、現実でありながら、そのままでは「見えない」ものを浮かび上がらせる。それは虚構を利用して現実を引き剥がすのか、それとも虚構を利用して現実を昇華するのか、どちらともいえる。常に往復する。そういうことを前提としている。
その往復の仕方が、山本は、非常に論理的なのである。
山本はガンであった。この作品の中にも「癌細胞」ということばが出てくる。山本は「現実」を「比喩」としてつかっている。この「現実」をこそ「比喩」としてつかうという論理が「標準語」なのである。「古今」「新古今」の文法なのである。山本の特徴はそこにある。「現実」と「比喩」を往復する。「現実」なのに、それを「比喩」として提示し、ふたつの間を往復することこそ、「古今」「新古今」がつくりあげた文法であり、その文法は「ことばの歴史」(比喩の歴史)を前提としている。あることばが何の比喩であるかということが、ある程度共有されることを前提としている。山本は、そういう前提をきちんと踏まえている。それが山本のことばを「標準語」化している。
「癌」の「比喩」は「わたしじゃない」と重なるとき、「わたしじゃない」が「比喩」になる。「わたし」は「ひとちがい」された。「わたしじゃない」。山本はそうこたえたが、ガンにおかされている山本は、実際それまでの山本(わたし)ではない。そんなふうにして、なにかが自分のなかで起きたとき、たしかに「わたしはもう/わたしじゃない」のである。
「わたし」を認識するわたし。その一方に「わたしじゃない」と認識する「わたし」がいる。「わたし」という現実は、いったい、どの「わたし」だろうか。「わたしじゃない」は一種の表現(比喩、に通じる方便)にすぎないが、その表現(比喩、方便)がいったんことばになると、ことばを超越して現実そのものになってしまう。そういう不思議な往復運動が、現実とことばのあいだでかわされる。
もしひとが生きているとすれば(山本がいてきているとすれば)、その往復運動のなかだけなのである。「帰る場所」とは、山本にとっては、その「往復運動」なのである。そのことを強く意識している。(この意識が「標準語」の意識である。)
川原で棒を投げる男。それは男であると同時に、山本(わたし)にもなりうる。山本になりうるからこそ、山本はそこをことばにする。その「男」は「わたしじゃない」、しかし「わたしじゃない」からこそ、「わたし」の現実を越えて、「わたし」の可能性になることができる。「わたしじゃない」からこそ、「わたし」を刺激する。
「わたしの内側でふれる」。
それは、そういう「ふれる」感じを具体的に書いたものだ。「ふれる」は「触れる」であり、「振れる」でもある。「ゆれる」のだ。ふたつの間で。いつもそういうものがある。
「癌」もまた生きている。それは「わたし」でありながら、「わたしじゃない」。ふたつの間で、山本は揺れる。ふたつの間で「生きる」(わたしである)ということの「基準」が「振れる」。そして、その「振れ(揺れ)」が山本の意識・感情に「触れる」。そこからことばがうまれる。哀しい響きが生まれる。そして、それは、そのふたつの間にのみ存在する。
山本が帰っていく場所は、いつも「ことば」である。現実と虚構の「間」である。そして、山本が生きる場所が、現実と虚構の間であるかぎり、私たちはいつでも、山本のことばを読み、山本に会うことができる。
*
山本哲也は死んだ。 3月12日。大腸ガンだった。
山本哲也は、私にとって長い間不思議なひとだった。九州の詩人なのに、詩に九州弁が感じられないのだ。私は九州の人間ではないので、九州へ来て、九州の詩人の作品を読むようになってから、いつもとまどっていた。とても奇妙なのである。詩のことばがなじめない。(他の文章もなじめない。私は多くのひとの文章を読む仕事をしているが、どうしても、これから文章を読むのだと意識しないことには、九州のひとの書いた文章が理解できなかった。大好きな柴田基典の詩でさえ、ときどき立ち止まってしまう。)ところが、唯一例外がいた。それが山本哲也だった。
そのことを私は山本哲也に話したことはない。(私が詩について語り合ったことがあるのは、九州では、唯一、柴田基典だけである。)
あるとき、田島安江と話していて、偶然その話題になった。そして、そこで私はもう一度衝撃を受けた。
「山本さんは九州の出身じゃありませんよ。たしか関東ですよ」
山本は九州の人間ではなかった。九州に長く生活しているが、最初のことばは九州のことばではなかった。だから九州弁が混じらないのである。道理で読みやすいはずである。私には山本のことばだけが、ほとんど唯一、九州で書かれている「標準語」の詩として感じられる。そして、それはたしかに「標準語」なのである。
私の書いていることは、たぶん、多くの九州のひとにはわからないことだと思う。もしかすると、九州以外のひとにもわからないかもしれない。そう思いながらも、たぶん、この機会しかないと思うので書いておく。
山本の「標準語」が他の九州の詩人のことばと違うのは、虚構への向き合い方が「標準語」なのである。どんな虚構も事実を踏まえる。現実に、日常につかわれていることばを踏まえる。架空のことばで語られる虚構はない。架空のことばで語られる嘘もない。そのときの、現実、あるいは日常への「距離」が、たぶん「九州弁」と「標準語」では違うのである。この「距離」はほとんど「感覚的」なものであって、説明がしにくい。なんとなく「九州顔」、なんとなく「京都顔」、なんとなく「北陸顔」というような、とてもあいまいなものである。あいまいだけれど、その土地その土地で共通する何か、微妙な「におい」のようなものである。
山本の虚構と現実の関係は、とても論理的である。そして、その論理は、簡単に言ってしまうと「古今和歌集」「新古今和歌集」のものである。抒情は、いったん精神をくぐりぬける。肉体そのもので抒情に触れるのではなく、精神で洗い流して提出する。その手続きが洗練されている。洗い流し方の方法が、きちんと歴史を踏まえている。「古今」「新古今」の芸術的文法を踏み外さない。
*
「帰る場所」。その1連目。
駅を出たところで
ひとちがいされた
(わたしじゃありません)
そうか、わたしはもう
わたしじゃないのかもしれない
誰かと勘違いされて声をかけられた経験は誰にでもあるものかもしれない。山本にしてもそれが最初の経験ではないだろう。そして、勘違いされたとき、多くのひとは「わたしじゃありません」とこたえる。これはごく普通のことである。山本は、そんなふうにして現実・日常を出発点にしてことばを動かす。
「わたしじゃない」から出発して、ほんとうに「わたしじゃない」世界へ入って行く。「わたし」が「わたし」ではなくなる。そういうことが現実に存在する。その具体的な体験を、山本は、2連目以降で虚構を利用しながら書きはじめる。
2連目以降は、次のようにつづく。
男が
川原で
棒切れをたかだかと抛りなげている
石ころだらけの浅瀬を犬が走り
棒切れをくわえてもどってくる
奇怪な針が
わたしの内側でふれる
狂ったように
それは、わたしのものなのか
見知らぬ他人のものなのか
浅瀬の砂地になったところに
たたき潰されたザリガニの甲羅が
散らばっている
なんの暗示なのだろう、それは
とかんがえるのは、抒情の堕落
なにかを殺しながら
生きていくしかないじゃないか
たとえば、
転移し散らばりながら癌細胞が
生きのびていくようにね
正義は
どちらがわにあるのだろう
いくどもそこへ帰っていく……
最終連が象徴的だが、山本の虚構は、現実と虚構を往復することを前提としている。現実は常に虚構であり、虚構は常に現実である。ことばは、そのふたつを往復し、ふたつを利用することで、現実でありながら、そのままでは「見えない」ものを浮かび上がらせる。それは虚構を利用して現実を引き剥がすのか、それとも虚構を利用して現実を昇華するのか、どちらともいえる。常に往復する。そういうことを前提としている。
その往復の仕方が、山本は、非常に論理的なのである。
山本はガンであった。この作品の中にも「癌細胞」ということばが出てくる。山本は「現実」を「比喩」としてつかっている。この「現実」をこそ「比喩」としてつかうという論理が「標準語」なのである。「古今」「新古今」の文法なのである。山本の特徴はそこにある。「現実」と「比喩」を往復する。「現実」なのに、それを「比喩」として提示し、ふたつの間を往復することこそ、「古今」「新古今」がつくりあげた文法であり、その文法は「ことばの歴史」(比喩の歴史)を前提としている。あることばが何の比喩であるかということが、ある程度共有されることを前提としている。山本は、そういう前提をきちんと踏まえている。それが山本のことばを「標準語」化している。
「癌」の「比喩」は「わたしじゃない」と重なるとき、「わたしじゃない」が「比喩」になる。「わたし」は「ひとちがい」された。「わたしじゃない」。山本はそうこたえたが、ガンにおかされている山本は、実際それまでの山本(わたし)ではない。そんなふうにして、なにかが自分のなかで起きたとき、たしかに「わたしはもう/わたしじゃない」のである。
「わたし」を認識するわたし。その一方に「わたしじゃない」と認識する「わたし」がいる。「わたし」という現実は、いったい、どの「わたし」だろうか。「わたしじゃない」は一種の表現(比喩、に通じる方便)にすぎないが、その表現(比喩、方便)がいったんことばになると、ことばを超越して現実そのものになってしまう。そういう不思議な往復運動が、現実とことばのあいだでかわされる。
もしひとが生きているとすれば(山本がいてきているとすれば)、その往復運動のなかだけなのである。「帰る場所」とは、山本にとっては、その「往復運動」なのである。そのことを強く意識している。(この意識が「標準語」の意識である。)
川原で棒を投げる男。それは男であると同時に、山本(わたし)にもなりうる。山本になりうるからこそ、山本はそこをことばにする。その「男」は「わたしじゃない」、しかし「わたしじゃない」からこそ、「わたし」の現実を越えて、「わたし」の可能性になることができる。「わたしじゃない」からこそ、「わたし」を刺激する。
「わたしの内側でふれる」。
それは、そういう「ふれる」感じを具体的に書いたものだ。「ふれる」は「触れる」であり、「振れる」でもある。「ゆれる」のだ。ふたつの間で。いつもそういうものがある。
「癌」もまた生きている。それは「わたし」でありながら、「わたしじゃない」。ふたつの間で、山本は揺れる。ふたつの間で「生きる」(わたしである)ということの「基準」が「振れる」。そして、その「振れ(揺れ)」が山本の意識・感情に「触れる」。そこからことばがうまれる。哀しい響きが生まれる。そして、それは、そのふたつの間にのみ存在する。
山本が帰っていく場所は、いつも「ことば」である。現実と虚構の「間」である。そして、山本が生きる場所が、現実と虚構の間であるかぎり、私たちはいつでも、山本のことばを読み、山本に会うことができる。
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