糸井茂莉「(夢の)破片」(「庭園 アンソロジー2008」2008年02月22日発行)
繊細にことばがゆらぐ。ゆらぎの中で、あるいはゆらぎの「間」で名付けられぬものが動く。そのとき「間」は「ま」になる。「ま」は「魔」になり、「魔」が「真」になる。 冒頭。
「くさ」と「草」。これは無数のうごめくくさの群れ(くさはら)から糸井自身の探している1本の草、糸井だけがはっきりと自覚できる1本を探す精神の動きを連想させる。だが、次の「水」と「みず」はどうか。私は一瞬目眩をおぼえる。「みずうみ」は「水うみ」ではない。「湖」である。しかし、その「みずうみ」を「水うみ」と認識し、「みず」へ戻す。「草原」から「草はら」へ、そして「くさはら」へという精神のうごきと錯綜する。何かが違っている。ずれている。そのずれがゆらぐ。ずれているから、何かがゆらぐ。たとえば、私、という基本的な何かが。
「くさ」から「草」、そして、そこから「草稿」へ。「草稿」にひそむ「草」へ。それに「水うみ」に住んでいる魚の「尾びれ」が侵入する。「くさはら」が「水うみ」なのだ。「湖」という存在ではなく、「湖」からずれてしまった「水うみ」。
「書き分け」ということばが象徴的だが、糸井は、意識の揺れを統一しようとはしない。ゆらぎをゆらぎとして「書き分ける」。つまり、ゆれをていねいに定着させ、そうすることで、「ずれ」を明確にし、「ずれ」がかかえこむ「間」へ読者の意識を誘い込むのである。
この末尾のことばのなかに「草」(そう)が隠れている。ゆらいでいる。ゆらぎながら見え隠れするもの--それが「真」である。「真」は糸井にとっては固定化されたものではない。固定化されず、ゆらぐもの。ゆらぎながら、何かをひきずり、動くもの。いまあることば、「流通している言語」ではつかみとることのできないもの。それが「真」であると宣言することは、現在流通している言語、固定化された言語は「真」ではないとささやく「悪魔」(魔)の声である。
「魔」の声は、私をとらえる。「魔」はこわいが、そのこわいことが快感なのだ。ふあんてい。どうなるかわからない。そのゆらぎが、肉体の奥をゆさぶる。つまずけば「魔が差した」といいのがれすればいい。つまずかず、ここから飛躍できれば、「これこそが真だ」と知ったかぶりをすればいい。ことばは現実をなぞるものではなく、現実をその内部からじわりと変形してゆくもの、ゆがめてゆくものだからである。ゆがみによって、現実はひろがってゆく。豊かになってゆく。
(この「ゆがみ」について、糸井は別のことばをつかっているが、それは作品を読んで確かめてください。書き出すと長くなるので、ここでは省略。)
そして、このゆらぎの豊かさは、実は、とてもやっかいである。みさかいがない。区別がない。論理を拒絶する。1連の短い文が、ねじれ、句読点のない世界へまで達する。
終わりから2連目の数行。
主語は何? 述語は? かたいの? やわらかいの? 牙をむくが、皮膜を、桃の薄皮を剥くと重なり合う時、「流通言語」にふれていない「無垢」のことばが、ことばにならないままあふれ、ししたる。
そのしたたりは、甘いか。汚いか。
これは読者次第である。ももの汁をあまいと感じるひとがいるように、手がよごれてきたないと感じるひとがいる。
甘いと感じるひとは、からみついた汁を、指をねぶりながらねぶる。汁をねぶっているか、指をねぶっているのかわからない--その楽しみをもあじわいながら。そして、ねぶりながら、自分のなかの体液、つばと汁を一体化させ、その一体感に酔う。
汚いと感じるひとはさっさと手を洗う。念入りに、水道の水、人工の水で洗い流すだろう。
糸井の詩は、ある意味で読者を選別するかもしれない。
私は、あくまで、その汁をねぶる。糸井のことばをねぶりつづける。それが糸井のことばではなく、私のつばにまみれ、べたべたになり、「え、そんなことを糸井は書いていないよ」という批判があふれるようになるまで、ただひたすらねぶりつづける。
たぶん、「糸井は谷内の書いているようなことは書いていない、誤読だ」という批判が確立した時、糸井のことばは私のなかで、まぎれもない「真」になる。
*
糸井の詩集を読むなら。
繊細にことばがゆらぐ。ゆらぎの中で、あるいはゆらぎの「間」で名付けられぬものが動く。そのとき「間」は「ま」になる。「ま」は「魔」になり、「魔」が「真」になる。 冒頭。
くさはらの(草)。水うみの(みず)。
「くさ」と「草」。これは無数のうごめくくさの群れ(くさはら)から糸井自身の探している1本の草、糸井だけがはっきりと自覚できる1本を探す精神の動きを連想させる。だが、次の「水」と「みず」はどうか。私は一瞬目眩をおぼえる。「みずうみ」は「水うみ」ではない。「湖」である。しかし、その「みずうみ」を「水うみ」と認識し、「みず」へ戻す。「草原」から「草はら」へ、そして「くさはら」へという精神のうごきと錯綜する。何かが違っている。ずれている。そのずれがゆらぐ。ずれているから、何かがゆらぐ。たとえば、私、という基本的な何かが。
くさはらの(草)。水うみの(みず)。あかるい夜、だから光っている。くさを掻き分けさがす、逃げた夢の尾びれ。ときにひとの手(と声)を借りて。草を書き分け、なくした草稿のひとひら。彼方で白く光っている。(あれが、そう)。
「くさ」から「草」、そして、そこから「草稿」へ。「草稿」にひそむ「草」へ。それに「水うみ」に住んでいる魚の「尾びれ」が侵入する。「くさはら」が「水うみ」なのだ。「湖」という存在ではなく、「湖」からずれてしまった「水うみ」。
「書き分け」ということばが象徴的だが、糸井は、意識の揺れを統一しようとはしない。ゆらぎをゆらぎとして「書き分ける」。つまり、ゆれをていねいに定着させ、そうすることで、「ずれ」を明確にし、「ずれ」がかかえこむ「間」へ読者の意識を誘い込むのである。
(あれが、そう。)
この末尾のことばのなかに「草」(そう)が隠れている。ゆらいでいる。ゆらぎながら見え隠れするもの--それが「真」である。「真」は糸井にとっては固定化されたものではない。固定化されず、ゆらぐもの。ゆらぎながら、何かをひきずり、動くもの。いまあることば、「流通している言語」ではつかみとることのできないもの。それが「真」であると宣言することは、現在流通している言語、固定化された言語は「真」ではないとささやく「悪魔」(魔)の声である。
「魔」の声は、私をとらえる。「魔」はこわいが、そのこわいことが快感なのだ。ふあんてい。どうなるかわからない。そのゆらぎが、肉体の奥をゆさぶる。つまずけば「魔が差した」といいのがれすればいい。つまずかず、ここから飛躍できれば、「これこそが真だ」と知ったかぶりをすればいい。ことばは現実をなぞるものではなく、現実をその内部からじわりと変形してゆくもの、ゆがめてゆくものだからである。ゆがみによって、現実はひろがってゆく。豊かになってゆく。
(この「ゆがみ」について、糸井は別のことばをつかっているが、それは作品を読んで確かめてください。書き出すと長くなるので、ここでは省略。)
そして、このゆらぎの豊かさは、実は、とてもやっかいである。みさかいがない。区別がない。論理を拒絶する。1連の短い文が、ねじれ、句読点のない世界へまで達する。
終わりから2連目の数行。
天空を割って(桃のように)開闢のときに立ち会う(ビャクという音(おん)から白檀の香りがただよう)すばしっこい小動物も(栗鼠?)からからいう木の実もみなあふれだして(砕けて)真珠のようにかたい(やわらかい(歯の))白を剥き夢の牙(夢の皮膜)も剥いてあらわれる獣の(手のひらにのるほどの)頭蓋(桃のような)
主語は何? 述語は? かたいの? やわらかいの? 牙をむくが、皮膜を、桃の薄皮を剥くと重なり合う時、「流通言語」にふれていない「無垢」のことばが、ことばにならないままあふれ、ししたる。
そのしたたりは、甘いか。汚いか。
これは読者次第である。ももの汁をあまいと感じるひとがいるように、手がよごれてきたないと感じるひとがいる。
甘いと感じるひとは、からみついた汁を、指をねぶりながらねぶる。汁をねぶっているか、指をねぶっているのかわからない--その楽しみをもあじわいながら。そして、ねぶりながら、自分のなかの体液、つばと汁を一体化させ、その一体感に酔う。
汚いと感じるひとはさっさと手を洗う。念入りに、水道の水、人工の水で洗い流すだろう。
糸井の詩は、ある意味で読者を選別するかもしれない。
私は、あくまで、その汁をねぶる。糸井のことばをねぶりつづける。それが糸井のことばではなく、私のつばにまみれ、べたべたになり、「え、そんなことを糸井は書いていないよ」という批判があふれるようになるまで、ただひたすらねぶりつづける。
たぶん、「糸井は谷内の書いているようなことは書いていない、誤読だ」という批判が確立した時、糸井のことばは私のなかで、まぎれもない「真」になる。
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糸井の詩集を読むなら。
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