杉本徹「(頬よせる車窓をつかのま…)」(「庭園 アンソロジー2008」2008年02月22日発行)
ことばが大好きな詩人というものが存在する。杉本徹もそのひとりだろうと思う。何を書きたいかというと精神の動きや感情の動きではなく、ただひたすらことばなのだ。
作品の書き出し。
ひとつのことばが他のどんなことばと結合可能であるか。杉本はただそれが知りたい。書きたいものがあるとしたら、その結合の可能性の有無である。
たとえば「レンズの底を光が」のあとに杉本は「つたう」と書いているが、「走る」ではどうか。「にごる」ではどうか。「……あらゆる照りかえしは問いを」のあとは「孕み」がいいのか「拒絶し」がいいのか。
この問いは、しかしほとんど無意味だろう。
それは瞬時に、ただインスピレーションによってのみ可能な選択である。というより、いくつかの候補のなかから選択する(推敲して選びとる)というものではなく、どこからかやってくることばをただ受け止め、それを間違えずに書き残すことが杉本の仕事である。
「書きたい」のではなく「書かされたい」のである。何によってか。詩によってである。そして書くことをとおしてことばを読みたいのだ。
あることばが別のことばと結びつくとき、いったいそこで何が起きているのか。
だれも、そのとき起きていることを読み切ることはできない。杉本にも、私を含め、他の読者にもできない。私は、たわむれにこうやって文章を書きながら杉本の詩を読んでいるふりをしているが、読んでいるわけではない。意味を探ったり、そのことばの響きの価値を判断し、何かを言っているわけではない。私はただそのことばの動きについていっているだけである。ことばが動く。ことばが別のことばと結びつく。その結びつきに誘われてついて行っているだけである。
ことばとことばの結びつき。その一瞬。
それだけがただ繰り返される。意味を拒絶し、文脈とはいうものも拒絶し、それでもことばは存在し、そこに結びつき、結合として立ち現れてくる。この定義不能な結合の立ち現れ、出現、それこそが詩なのである。
不可思議な結合が、それまでのことばを破壊する。
そして、この破壊を「批評」は呼ぶこともできる。既存の言語への批評、と。あるいは既存の言語への批判、と。
破壊され、批評され、批判されたとき、その向こう側に何かが瞬間的に見える。
詩とは、そういうものである。
この、破壊の向こうに瞬間的に見えるものは、錯覚かもしれない。たぶん、いまは、錯覚なのである。しかし、いま錯覚であるものが、将来も永遠に錯覚であるかどうかはわからない。将来は、そういう言語の結合する世界が真実になるかもしれない。なぜなら、人間のこころはかわるからである。とんでもない具合にかわるからである。好きであったものが突然嫌いになったり、嫌いであったものが突然その人を支配し、恍惚とさせてしまったり。その瞬間に、幻が、現実となって出現する。
どのことばが、そういう力を秘めているか。
そんなことは、実は、わからない。永遠にわからない。
ただ、あ、これ、いいじゃないか、という印象として、そこに存在するだけである。まったくの無防備で、ただ、ことばとして。
この1行は、私は嫌いである。
も嫌いである。特に「光年の谺」が嫌いだ。「谺」が嫌いだ。とても古くさく感じる。なぜ古くさく感じるのかわからないけれど、いったいだれがいま、こんなことばをつかうのだろうと思ってしまう。
ところが、その次の、
この古さが私は好きだ。「翔ぶものの骨となす」の「なす」ということばの古い古い強さがとても好きだ。この古さの強さが、全体のことばの古びた軽さを押さえている。焦点のように、あるいは重力の中心のようにというか、全体を「なす」という世界へ引きずり込む。
その動きの強さが好きである。
*
いま手に入る杉本の詩集。
ことばが大好きな詩人というものが存在する。杉本徹もそのひとりだろうと思う。何を書きたいかというと精神の動きや感情の動きではなく、ただひたすらことばなのだ。
作品の書き出し。
頬よせる車窓をつかのま、レンズの底を光がつたう
……あらゆる照りかえしは問いを孕み
「かわく樹、かわく横顔、
そこまでの数年もまた、見知らぬ天体だった」
地平をさえぎる風景は恒星に曳かれつつ、流れ
いつか地平を鋭角で截るビル影に、光年の谺をかえすため
わたしの一秒を、翔ぶものの骨となす--
ひとつのことばが他のどんなことばと結合可能であるか。杉本はただそれが知りたい。書きたいものがあるとしたら、その結合の可能性の有無である。
たとえば「レンズの底を光が」のあとに杉本は「つたう」と書いているが、「走る」ではどうか。「にごる」ではどうか。「……あらゆる照りかえしは問いを」のあとは「孕み」がいいのか「拒絶し」がいいのか。
この問いは、しかしほとんど無意味だろう。
それは瞬時に、ただインスピレーションによってのみ可能な選択である。というより、いくつかの候補のなかから選択する(推敲して選びとる)というものではなく、どこからかやってくることばをただ受け止め、それを間違えずに書き残すことが杉本の仕事である。
「書きたい」のではなく「書かされたい」のである。何によってか。詩によってである。そして書くことをとおしてことばを読みたいのだ。
あることばが別のことばと結びつくとき、いったいそこで何が起きているのか。
だれも、そのとき起きていることを読み切ることはできない。杉本にも、私を含め、他の読者にもできない。私は、たわむれにこうやって文章を書きながら杉本の詩を読んでいるふりをしているが、読んでいるわけではない。意味を探ったり、そのことばの響きの価値を判断し、何かを言っているわけではない。私はただそのことばの動きについていっているだけである。ことばが動く。ことばが別のことばと結びつく。その結びつきに誘われてついて行っているだけである。
ことばとことばの結びつき。その一瞬。
それだけがただ繰り返される。意味を拒絶し、文脈とはいうものも拒絶し、それでもことばは存在し、そこに結びつき、結合として立ち現れてくる。この定義不能な結合の立ち現れ、出現、それこそが詩なのである。
不可思議な結合が、それまでのことばを破壊する。
そして、この破壊を「批評」は呼ぶこともできる。既存の言語への批評、と。あるいは既存の言語への批判、と。
破壊され、批評され、批判されたとき、その向こう側に何かが瞬間的に見える。
詩とは、そういうものである。
この、破壊の向こうに瞬間的に見えるものは、錯覚かもしれない。たぶん、いまは、錯覚なのである。しかし、いま錯覚であるものが、将来も永遠に錯覚であるかどうかはわからない。将来は、そういう言語の結合する世界が真実になるかもしれない。なぜなら、人間のこころはかわるからである。とんでもない具合にかわるからである。好きであったものが突然嫌いになったり、嫌いであったものが突然その人を支配し、恍惚とさせてしまったり。その瞬間に、幻が、現実となって出現する。
どのことばが、そういう力を秘めているか。
そんなことは、実は、わからない。永遠にわからない。
ただ、あ、これ、いいじゃないか、という印象として、そこに存在するだけである。まったくの無防備で、ただ、ことばとして。
地平をさえぎる風景は恒星に曳かれつつ、流れ
この1行は、私は嫌いである。
いつか地平を鋭角で截るビル影に、光年の谺をかえすため
も嫌いである。特に「光年の谺」が嫌いだ。「谺」が嫌いだ。とても古くさく感じる。なぜ古くさく感じるのかわからないけれど、いったいだれがいま、こんなことばをつかうのだろうと思ってしまう。
ところが、その次の、
わたしの一秒を、翔ぶものの骨となす--
この古さが私は好きだ。「翔ぶものの骨となす」の「なす」ということばの古い古い強さがとても好きだ。この古さの強さが、全体のことばの古びた軽さを押さえている。焦点のように、あるいは重力の中心のようにというか、全体を「なす」という世界へ引きずり込む。
その動きの強さが好きである。
*
いま手に入る杉本の詩集。
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