小島数子「空に深く見下ろされた」(「庭園 アンソロジー2008」2008年02月22日発行)
最後の方にとても美しい行がある。
作品のちょうどページが変わったところからはじまるので、そこだけを1篇の詩として何度も読んだ。
繰り返し繰り返し読んでいる内に私が書くとしたら、と思わず思ってしまった。1か所、たった1か所、どうしてもつまずく部分がある。
「紫」という音はとてもむずかしい音だと思う。「紫色」となると、なおむずかしい。音楽にならない。(私の耳にとって、というだけのことであって、小島の耳には音楽として響くのだとは思うが。)
「色」ということばを省きたくてしようがないのである。「むらさきいろ」と「むらさき」のどこが違うのかと聞かれたら、私にもよくわからない。ただ「むらさき」と単独の場合の方が私には美しく響く。「色」が見える。「紫色」というと「色」が突然濁ってしまう。
かつて私が住んでいた街には「紫川」という川があって、私はこの川が非常に嫌いだった。その川のことは何度も詩に書いたりしたが一度も「紫川」ということばをつかったことはない。どうしてもなじめない。特に、その街特有の鼻濁音ではない音で「むらさきがわ」と発音されると耳をふさぎたくなる。こんな汚い音をよく川につけたものだ。だからこんなに汚い川になったのだ、とさえ思った。
こんなことを書いてみても、小島の詩について書いたことにはならないのだが、どうしても、「紫色」という音についてだけは書いておきたかった。
*
この詩の美しさは、
という行の「と」からはじまる転調にある。「と」からはじまり「は」で終わる。ここに急に動く音楽がある。意味を追いかけてきたことばが、突然、いったん意味を放り出す。
「思う」ということの内容が放り出され、それが「溜め息」にすりかわって、主語になる。そして、「思う」こと(思ったこと)の内容からふっきれて、いままでそこには存在しなかったものへと一気に結びつく。
ありえない出会い。いままで存在しなかった出会いが突然誕生する。
この突然の変化、転調の果ての開かれ方にうっとりしてしまう。秋の花の紫を見に行きたくなる。どこに咲いている? と思わず聞きたくなる。
そういう美しさだ。
次の、
もすばらしい。とてもすばらしい。ほんとうにすばらしい。何度も何度も繰り返し読まずにはいられない。
の絶妙な変化。「明日は憂いのないものに憂いのあることを願い」だったら、この美しさは生まれない。「明日は憂いのないものにも憂いのないことを願い」という一種の想像力を裏切る動きが、対を破る破調がとても美しい。それが
と締めくくられるとき、あ、いま読んだ行をもう一度聞かせて、何度でも聞かせて、と言いたくなってしまう。
「と言ってみる」のなかにある、何かを追い求めるような気持ち、ほんとうは存在しないものをことばで取り出そうとする祈りのようなものを感じてしまう。その祈りの音楽にこころを奪われる。
私の感想は印象批評でありすぎるかもしれない。でも、こうとしか書けない。この数行の美しさをだれかがもっとていねいに書いてくれたらなあ、と思わず願ってしまう。
*
小島数子の詩をもっと読むなら。
最後の方にとても美しい行がある。
人に食べてもらえる魚を
海で獲れなくなったら
どこで獲ろう
と思う漁師たちの溜め息は
秋の花の紫色に落ちる
明日は憂いのあるものに憂いのないことを願い
明日は憂いのないものにも憂いのないことを願い
と言ってみる
作品のちょうどページが変わったところからはじまるので、そこだけを1篇の詩として何度も読んだ。
繰り返し繰り返し読んでいる内に私が書くとしたら、と思わず思ってしまった。1か所、たった1か所、どうしてもつまずく部分がある。
「紫」という音はとてもむずかしい音だと思う。「紫色」となると、なおむずかしい。音楽にならない。(私の耳にとって、というだけのことであって、小島の耳には音楽として響くのだとは思うが。)
と思う漁師たちの溜め息は
秋の花の紫に落ちる
「色」ということばを省きたくてしようがないのである。「むらさきいろ」と「むらさき」のどこが違うのかと聞かれたら、私にもよくわからない。ただ「むらさき」と単独の場合の方が私には美しく響く。「色」が見える。「紫色」というと「色」が突然濁ってしまう。
かつて私が住んでいた街には「紫川」という川があって、私はこの川が非常に嫌いだった。その川のことは何度も詩に書いたりしたが一度も「紫川」ということばをつかったことはない。どうしてもなじめない。特に、その街特有の鼻濁音ではない音で「むらさきがわ」と発音されると耳をふさぎたくなる。こんな汚い音をよく川につけたものだ。だからこんなに汚い川になったのだ、とさえ思った。
こんなことを書いてみても、小島の詩について書いたことにはならないのだが、どうしても、「紫色」という音についてだけは書いておきたかった。
*
この詩の美しさは、
と思う漁師たちの溜め息は
秋の花の紫色に落ちる
という行の「と」からはじまる転調にある。「と」からはじまり「は」で終わる。ここに急に動く音楽がある。意味を追いかけてきたことばが、突然、いったん意味を放り出す。
「思う」ということの内容が放り出され、それが「溜め息」にすりかわって、主語になる。そして、「思う」こと(思ったこと)の内容からふっきれて、いままでそこには存在しなかったものへと一気に結びつく。
ありえない出会い。いままで存在しなかった出会いが突然誕生する。
秋の花の紫色に落ちる
この突然の変化、転調の果ての開かれ方にうっとりしてしまう。秋の花の紫を見に行きたくなる。どこに咲いている? と思わず聞きたくなる。
そういう美しさだ。
次の、
明日は憂いのあるものに憂いのないことを願い
明日は憂いのないものにも憂いのないことを願い
と言ってみる
もすばらしい。とてもすばらしい。ほんとうにすばらしい。何度も何度も繰り返し読まずにはいられない。
明日は憂いのあるものに憂いのないことを願い
明日は憂いのないものにも憂いのないことを願い
の絶妙な変化。「明日は憂いのないものに憂いのあることを願い」だったら、この美しさは生まれない。「明日は憂いのないものにも憂いのないことを願い」という一種の想像力を裏切る動きが、対を破る破調がとても美しい。それが
と言ってみる
と締めくくられるとき、あ、いま読んだ行をもう一度聞かせて、何度でも聞かせて、と言いたくなってしまう。
「と言ってみる」のなかにある、何かを追い求めるような気持ち、ほんとうは存在しないものをことばで取り出そうとする祈りのようなものを感じてしまう。その祈りの音楽にこころを奪われる。
私の感想は印象批評でありすぎるかもしれない。でも、こうとしか書けない。この数行の美しさをだれかがもっとていねいに書いてくれたらなあ、と思わず願ってしまう。
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小島数子の詩をもっと読むなら。
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