詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「哀しいと言う木」

2008-03-13 10:27:23 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「哀しいと言う木」(「白黒目」10、2008年03月発行)
 豊原のことばは無防備である。そして、その無防備であることが、とても強い。「防備」という「頭」を肉体が破って、はみ出してくる。その力が、あらゆる「防備」の水準を超える。--たぶん、私の書いていることは論理的ではない。だが、そうとしかいまの私には書けない。
 全行引用する。

こちらから遠くへと 汗を噴きながら歩いて
監視カメラの威圧感に、
僕の体はいたぶられる
祈ることも出来ない我が街
ああ どうしたら良いのだろうか?
古本の値段がそう、囁いた
そうねえ、生家まで行ったら良いかしらねえ
老人を冷やす、扇風機がそう提案した
ウン こんなとこいられない
生家へ行って、僕のお家はヒステリックな
母と僕がいつも叫びあって
母は一泊二日の高知へ行った
だから僕はバスに乗って
草原の丘へ走っていった
しかし生家は全く別の、
ビルディングになっていた
僕はうわあああと叫び
走っていった
すると野の公園が見えて
ごろんと寝転がって
草はそっと頬を撫でてくれた
よく来てくれた。
ふと頭が軽くなった
昼間 父と日替わりランチをくった、ナア。
づづづ、草が何と言うことだと、
自然治癒せえや
空き缶、踏み潰して、草の臭い

 後半が特に美しい。草も父も僕も、みんなが無防備になりぶつかりあう。溶け合ってしまう。しかし、溶け合うといっても、それが一体になるというのではない。それぞれの別個の存在でありながら、別個であることによって(別個であることを自覚することで)、はじめて一体になる。宇宙が(というとおおげさだろうか)、あらゆる別個の存在で成り立っている。そして、それは別個であるがゆえに、宇宙というひとつのものになる。無防備なもの、防備することを忘れてしまって、ただ互いが向き合う。その一瞬。
 
 豊原のことばは、ただ向き合うのだ。何かと。

 草と向き合う。父と向き合う。(そして、あまり仲がよくない?母とも。)あるいは監視カメラとも古本とも扇風機とも。向き合って、その向き合った相手に対して、ただ無防備になる。
 すると、不思議なことが起きるのだ。
 無防備になった瞬間、「僕」は「僕」でありながら、同時に「僕」以外の何かでもあるのだ。たとえば、「草」が「僕」そのものとして、突然話しはじめるのである。

僕はうわあああと叫び
走っていった
すると野の公園が見えて
ごろんと寝転がって
草はそっと頬を撫でてくれた
よく来てくれた。

 この草との対話、草から「よく来てくれた」という声の、その瞬間の美しさ。
 この部分は、草が「よく来てくれた」と「僕」に対して語りかけているだが、そういう草と僕との会話というより、僕が草そのものになり、僕を迎え入れている。そういう一体感がある。
 どこか草原へ行って「よく来てくれた」という草の声を聞き出すというよりも、何か、草原まで駆けて行って、そうやって駆けて行った(駆けてきた)自分自身に対して「よく来てくれた」というような感じ。自分で自分をほめてやりたいような感じ。自分で自分をほめてやるために、その一瞬、草になる、という感じ。
 この哀しい、美しさ。

 私たちはそれぞれ別個の人生を、いのちを生きている。しかし、ときどき、自分のいのちだけではなく、他人の(他者の)いのちを生きる。他人になって、自分と向き合う。そういうことができるのは、自分自身が無防備になったときだけなのである。自分を防御したままでは他人(他者)にはなれない。

自然治癒せえや

 それは父が言ったことばだろう。
 しかし、それを豊原は自分自身のなかからあふれてくることばとして聞く。父と僕とが一体になり、僕の傷ついたこころが自然に治癒することを祈る。
 この一体感--それは「愛」のようなものである。
 「愛」というのは常に私と他者とがいて成り立つ。それぞれが別個であるがゆえに、そこに「愛」ということがらも起きる。
 「愛」はいつでもいのちが輝くことを願っている。それが自分のいのちであるか、他人のいのちであるかは区別せずに、ただいのちが輝くことを祈っている。
 祈るとき、ひとは無防備である。--無防備に、ただ祈ることができる、そのときの不思議な強さが、この詩にはあふれている。





夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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コメント (1)
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