北川透「打楽器あるいは、わがトライアングル」(「現代詩手帖」2008年03月号)
「トライアングル」にあわさるように、「蛇口--時間--佇立」など三つの存在を結んだ断章が書かれている。タイトルはその三つが直線上に並んでいる。「トライアングル」を形作ってはいない。それなのに「トライアングル」というタイトルがあるためか、私は三角形を思い描いてしまう。そして三角形のついでに、弁証法の三角形なども思い浮かべてしまう。
--ことばは、とてもやっかいなものである。ことばは、それがどういうものをさして書かれているか、それを書いたひとの意図(意思)とは関係ないものを浮かび上がらせてしまう。ことばがある事実にもとづいて書かれていたとしても、いったん書かれてしまうと、その事実とは関係なく動いて行ってしまう。
そんなことを思いながら、北川の詩を読んだ。
「トライアングル」、あるいは「三」とは北川にとって、どういうものなのだろうか。いくつもの「三」が出てくるが、そのどれもが私にはとても似ているものに見える。
「三」は二者択一とは関係がない。「二」の対立(生か死か、女か男かなど)が昇華して結果の新しい「到達点」ではない。(弁証法とは関係がない。)対立を解消する(昇華する、止揚する)のではない。むしろ、対立するものを「溶解」する。ごちゃごちゃにする。常に、どっちでもない。かって(「自由」ということばを北川はつかっている)に何かと「連結」する。
「三」で明らかにしたいのは、「自由」である。北川は、ことばの「自由」を求めている。何とでも結びつく「自由」を、である。「死」に対抗して「生」と結びつくというような「自由」ではなく、「死」に対抗する時は、「生」ということば(概念)とは無縁のものと結びつく「自由」である。そういう「自由」が実現する時、「死」と「生」は対立という関係をなくし、定義できないもののなかに「溶解」する。北川は、いまここにある、あらゆる定義を溶解することで自由になりたいのである。それは「死」はいつでも「生」になり、「生」はいつでも「死」になるということと同じ意味である。入れ替わってしまうのである。別な言い方をすれば、「死」が「死」であるという意味(固定されたもの)が消えてしまう。その「無」としての存在が「三」の有り様である。この「無」は「混沌」(カオス)と言い換えてもいい。北川は「混沌」(カオス)を出現させることで、そこを通り抜けるものが、それぞれ自分の好きな何かになればいいと願っている。そういうことを欲望している。
次の行が象徴的である。
北川の詩のなかにはいろいろなことばが出てくる。
もし、そのなかから「キーワード」を探すとすれば、「欲望」である。それは次のようにつかわれている。
「三」は「欲望」の形である。「欲望」によって生まれるものである。たとえば「男」が「女」を欲望する。「女」を手に入れる(女になる)なら、そこから「三」は生まれてこない。「男」と「女」がごちゃごちゃに溶解し、定義できないものになる時、「三」が生まれる。
「三」を欲望する精神が、ここではいくつものことばに分裂しながら、分裂することで「三」がひとつのものであることを浮かび上がらせているのである。
「トライアングル」にあわさるように、「蛇口--時間--佇立」など三つの存在を結んだ断章が書かれている。タイトルはその三つが直線上に並んでいる。「トライアングル」を形作ってはいない。それなのに「トライアングル」というタイトルがあるためか、私は三角形を思い描いてしまう。そして三角形のついでに、弁証法の三角形なども思い浮かべてしまう。
--ことばは、とてもやっかいなものである。ことばは、それがどういうものをさして書かれているか、それを書いたひとの意図(意思)とは関係ないものを浮かび上がらせてしまう。ことばがある事実にもとづいて書かれていたとしても、いったん書かれてしまうと、その事実とは関係なく動いて行ってしまう。
そんなことを思いながら、北川の詩を読んだ。
「トライアングル」、あるいは「三」とは北川にとって、どういうものなのだろうか。いくつもの「三」が出てくるが、そのどれもが私にはとても似ているものに見える。
たとえば、賛成か反対か、死か生か、美か醜かという一義的な選択を迫る<国家>の強制力に対して、性交する俗語たちと放火する修道僧たち、日傘を指している鬼瓦と泥んこになっている白雪姫等々のすべての離反し、対抗する動詞群を連結する自由(イメージ)として。 (ことば--国家--空虚)
詩は自然としての性を超えることによってエロスとなる。詩は男性が<女性>性でもあり、女性が<男性>性でもあり、二つの生が自由に入れ替わり、溶解することのできる、性差交換のエロスのあり方だからである。 (生命--身体--エロス)
「三」は二者択一とは関係がない。「二」の対立(生か死か、女か男かなど)が昇華して結果の新しい「到達点」ではない。(弁証法とは関係がない。)対立を解消する(昇華する、止揚する)のではない。むしろ、対立するものを「溶解」する。ごちゃごちゃにする。常に、どっちでもない。かって(「自由」ということばを北川はつかっている)に何かと「連結」する。
「三」で明らかにしたいのは、「自由」である。北川は、ことばの「自由」を求めている。何とでも結びつく「自由」を、である。「死」に対抗して「生」と結びつくというような「自由」ではなく、「死」に対抗する時は、「生」ということば(概念)とは無縁のものと結びつく「自由」である。そういう「自由」が実現する時、「死」と「生」は対立という関係をなくし、定義できないもののなかに「溶解」する。北川は、いまここにある、あらゆる定義を溶解することで自由になりたいのである。それは「死」はいつでも「生」になり、「生」はいつでも「死」になるということと同じ意味である。入れ替わってしまうのである。別な言い方をすれば、「死」が「死」であるという意味(固定されたもの)が消えてしまう。その「無」としての存在が「三」の有り様である。この「無」は「混沌」(カオス)と言い換えてもいい。北川は「混沌」(カオス)を出現させることで、そこを通り抜けるものが、それぞれ自分の好きな何かになればいいと願っている。そういうことを欲望している。
次の行が象徴的である。
わたしとあなたは、絶えず入れ替わり、変身し、仮装する他者によって、わたし(あなた)になるのだし、そのわたし(あなた)はもはやあのわたし(あなた)ではない。
(わたし(あなた)--仮面--かれら)
北川の詩のなかにはいろいろなことばが出てくる。
もし、そのなかから「キーワード」を探すとすれば、「欲望」である。それは次のようにつかわれている。
あるいは<仮面>とは、詩の形式あるいは形態であり、緊密に構成されたレトリックであり、思い出された(仮構された)語り手であり、欲望された性である。
(わたし(あなた)--仮面--かれら)
「三」は「欲望」の形である。「欲望」によって生まれるものである。たとえば「男」が「女」を欲望する。「女」を手に入れる(女になる)なら、そこから「三」は生まれてこない。「男」と「女」がごちゃごちゃに溶解し、定義できないものになる時、「三」が生まれる。
「三」を欲望する精神が、ここではいくつものことばに分裂しながら、分裂することで「三」がひとつのものであることを浮かび上がらせているのである。
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