稲川方人「カンブリア湖の岸のあなたの家」(「現代詩手帖」2008年03月号)
私は稲川方人の詩が苦手である。何が書いてあるか、さっぱりわからない。そして不思議なことに、何が書いてあるのかさっぱりわからないのに、平出隆の詩を読んだあとに稲川の作品を読んだ時に限って、稲川の詩がとてもおもしろく感じる。平出が行を重ねてやっと表現していることを稲川は2行で行ってしまう。平出の1篇と稲川の2行は等しい。そういう印象があった。平出の詩とセットになっているとき以外に稲川の詩を読んだことは、私にはほとんど経験がない。目で、ことばを追ったことだけなら何度もあるが、読んだという記憶は一度もない。平出からみると稲川は天才に見えるだろうなあ、という印象を持っただけであって、それ以外のことは感じたことがない。
きょう、はじめて私は稲川の詩を読んだ。つまり、稲川の詩を平出のことばとセットにせずに、という意味である。そして非常に驚いた。稲川は抒情詩人だったのか? 稲川は平出と双子だったのか?
作品の冒頭。
どの行がどの行に対応するというわけではないが、この冒頭の改行の具合を修正(?)すれば、ここに書かれている世界は平出の世界である。「坂道」「森」「小川」と移行しつつ「はまど」「たくど」「にじゅうや」とことばをたずね歩く調子は平出そのものである。ただし、平出のことばのリズムの方がはるかに清潔である。音が、同時に、とても透明である。
それにしても不思議である。
稲川のこの作品は、私には「現代」の詩とは感じられない。寄せ集められている(?)ことばが、そのことばの風景が、まるで1960年代、どんなにあたらしく見ても1970年代である。
平出が迂回した清水哲男がここにいる。あるいは平出が迂回した清水昶もいるかもしれないし、堀川正美もいるかもしれない。さらには荒川洋治が迂回した彼らがいるかもしれない。平出と荒川が迂回することで獲得したリズムからはるか遠くへ先祖帰りしている稲川の、このことば運びに、私は、とても驚いてしまった。
私を困惑させるイメージはどこにもない。わけのわからないことは何も書かれていない。そしてそのことが、私には、非常にわからない。ほんとうに、これが稲川方人なのだろうか。
私はこれまで稲川の作品を好きだと思ったことは一度もない。好きだと思ったことは一度もないけれど、たしかに稲川のことばなのだと感じてきた。(そうい詩人は、私には何人か存在する。ぜんぜんわからない。--しかし、わからないからこそ、彼が詩人だと思える人が何人か存在する。)
この詩では、私は、稲川を感じないのである。平出のことばを必要としないのである。平出の詩を読んだあとでないと、何が書いてあるのか、書こうとしているのか、ことばの動きについていけない--ということがないのである。
特に、
というリズム。
あまりにも、あまりにも、あまりにも(何度繰り返しても足りないくらい)1970年代である。「融合」「背後」(明るい背後)ということばが、いま、つかわれる気持ち悪さに私はぞっとする。背後からふいに「あしたという字は明るい日と書くのね」なんて歌が聞こえてきそうである。ことばが含んでいるものと、リズムが、私には1970年代の「流通(ファッション)」としか感じられないのである。
平出が、意識しながら迂回したものが、突然、平出を離れて稲川のことばのなかに噴出してきてしまった。
私の書いていることは、乱暴な印象批評である。具体的なことばの分析を欠いたものである。具体的に書く気持ちがしない。(稲川には申し訳ないが。)
稲川は、たとえば「故郷」や「白い食器」「言葉の少ない道」ということばを、批評しながら書いているのだとすれば、それはそれで詩なのだろう。(実際、稲川のことばに、「流通言語」に対する批判があると評価する人がいて、稲川は詩人として存在するのだろうけれど。)
きのう北川透の作品を取り上げたとこも、私の感想のことばの奥には残響のようにして残っているのかもしれない。(あ、ことばが重複している--と思うが、書き直さない。)北川のことばには、それが書いた瞬間から違ったことばになってしまわないという覚悟のようなものがある。他人が(読者が)どんなふうにずれて行っても(誤読しても)、それはことばの可能性であり、訳がわからなくなるからこそ、そこに「かっこいい何か」、ことばになっていないものが出現してくる--ということは、まあ、ほんとうに少なくて、少ないからこそ、その瞬間を目指してことばを(流通言語を)破壊し続ける。流動させ続ける。そういうおもしろさと対比すると(対してはいけないのかもしれないが)、ほんとうにぞっとしてしまうのである。
*
稲川は次のような詩集を出しています。
私は稲川方人の詩が苦手である。何が書いてあるか、さっぱりわからない。そして不思議なことに、何が書いてあるのかさっぱりわからないのに、平出隆の詩を読んだあとに稲川の作品を読んだ時に限って、稲川の詩がとてもおもしろく感じる。平出が行を重ねてやっと表現していることを稲川は2行で行ってしまう。平出の1篇と稲川の2行は等しい。そういう印象があった。平出の詩とセットになっているとき以外に稲川の詩を読んだことは、私にはほとんど経験がない。目で、ことばを追ったことだけなら何度もあるが、読んだという記憶は一度もない。平出からみると稲川は天才に見えるだろうなあ、という印象を持っただけであって、それ以外のことは感じたことがない。
きょう、はじめて私は稲川の詩を読んだ。つまり、稲川の詩を平出のことばとセットにせずに、という意味である。そして非常に驚いた。稲川は抒情詩人だったのか? 稲川は平出と双子だったのか?
作品の冒頭。
セロファンの手に
文字を書きつつ
あなたは教えてくれた
思惟の岐れる坂道の名は
はどまの坂
胡桃泣く肌色の森の名は
たくどの跡
うつ伏せの栗鼠の小川の名は
にじゅうや堰
どの行がどの行に対応するというわけではないが、この冒頭の改行の具合を修正(?)すれば、ここに書かれている世界は平出の世界である。「坂道」「森」「小川」と移行しつつ「はまど」「たくど」「にじゅうや」とことばをたずね歩く調子は平出そのものである。ただし、平出のことばのリズムの方がはるかに清潔である。音が、同時に、とても透明である。
それにしても不思議である。
稲川のこの作品は、私には「現代」の詩とは感じられない。寄せ集められている(?)ことばが、そのことばの風景が、まるで1960年代、どんなにあたらしく見ても1970年代である。
あなたの水着に溢れた
アメジストを載せて
船は朝霧を行き、
二十年忌の遠い川を遡って
故郷へ帰る
平出が迂回した清水哲男がここにいる。あるいは平出が迂回した清水昶もいるかもしれないし、堀川正美もいるかもしれない。さらには荒川洋治が迂回した彼らがいるかもしれない。平出と荒川が迂回することで獲得したリズムからはるか遠くへ先祖帰りしている稲川の、このことば運びに、私は、とても驚いてしまった。
わたしのいくつもの手紙をあなたは読み、
涙を拭く手に
白い食器の光を受ける
拙い別れを最後として、
言葉の少ない道から
あなたはひとりひとりの家族を捨てて行く
融合……いつしか
あなたの明るい背後をそう呼ぶのは、
わたしがそこにあなたの愛した
人影の深さを知るから
私を困惑させるイメージはどこにもない。わけのわからないことは何も書かれていない。そしてそのことが、私には、非常にわからない。ほんとうに、これが稲川方人なのだろうか。
私はこれまで稲川の作品を好きだと思ったことは一度もない。好きだと思ったことは一度もないけれど、たしかに稲川のことばなのだと感じてきた。(そうい詩人は、私には何人か存在する。ぜんぜんわからない。--しかし、わからないからこそ、彼が詩人だと思える人が何人か存在する。)
この詩では、私は、稲川を感じないのである。平出のことばを必要としないのである。平出の詩を読んだあとでないと、何が書いてあるのか、書こうとしているのか、ことばの動きについていけない--ということがないのである。
特に、
融合……いつしか
あなたの明るい背後をそう呼ぶのは、
というリズム。
あまりにも、あまりにも、あまりにも(何度繰り返しても足りないくらい)1970年代である。「融合」「背後」(明るい背後)ということばが、いま、つかわれる気持ち悪さに私はぞっとする。背後からふいに「あしたという字は明るい日と書くのね」なんて歌が聞こえてきそうである。ことばが含んでいるものと、リズムが、私には1970年代の「流通(ファッション)」としか感じられないのである。
平出が、意識しながら迂回したものが、突然、平出を離れて稲川のことばのなかに噴出してきてしまった。
私の書いていることは、乱暴な印象批評である。具体的なことばの分析を欠いたものである。具体的に書く気持ちがしない。(稲川には申し訳ないが。)
稲川は、たとえば「故郷」や「白い食器」「言葉の少ない道」ということばを、批評しながら書いているのだとすれば、それはそれで詩なのだろう。(実際、稲川のことばに、「流通言語」に対する批判があると評価する人がいて、稲川は詩人として存在するのだろうけれど。)
きのう北川透の作品を取り上げたとこも、私の感想のことばの奥には残響のようにして残っているのかもしれない。(あ、ことばが重複している--と思うが、書き直さない。)北川のことばには、それが書いた瞬間から違ったことばになってしまわないという覚悟のようなものがある。他人が(読者が)どんなふうにずれて行っても(誤読しても)、それはことばの可能性であり、訳がわからなくなるからこそ、そこに「かっこいい何か」、ことばになっていないものが出現してくる--ということは、まあ、ほんとうに少なくて、少ないからこそ、その瞬間を目指してことばを(流通言語を)破壊し続ける。流動させ続ける。そういうおもしろさと対比すると(対してはいけないのかもしれないが)、ほんとうにぞっとしてしまうのである。
*
稲川は次のような詩集を出しています。
稲川方人全詩集1967‐2001稲川 方人思潮社このアイテムの詳細を見る |