詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジュリアン・シュナーベル監督「潜水服は蝶の夢を見る」

2008-03-25 09:07:57 | 映画
監督 ジュリアン・シュナーベル 出演 マチュー・アマルリック、エマニエル・セニエ、マリ・ジョゼ・クローズ

 映像がうつくしい。とてつもなく美しい。冒頭のレントゲン写真さえ、水に沈んでゆれているような、甘いあいまいさをふくみ、とてもいとおしい。主人公の「視野」は、さらにすばらしい。最初のゆらめき不安定な映像に「見える」ことの不思議さ、生きている不思議さがゆらいでいる。不安と恐怖さえ、やさしく、やわらかく、いのちをつつんでいる。生きている、とわかってからの「視野」もとても美しい。女の胸元や、太股でたわむれるスカートと風など、届かぬ初恋のように清潔で美しい。そして清潔であることが、とてつもなく色っぽい。喜びにあふれている。
 主人公は実在の人物。雑誌「ELLE」の編集長。脳梗塞で倒れ、左目、そして左のまぶたしか動かない。体はまったく動かない。その男が見る世界。それは、ほんとうはこの映画のように美しくはないかもしれない。けれども、この映画はそれをとても美しくとらえる。まるで存在のすべてが主人公の小さな「視野」を知っていて、「見て、見て、私はこんなに美しい」と主張しているかのようだ。主人公が「死にたい」とことばを伝えたとき、言語療法師が怒る。怒って、部屋を出て行く。そのシーンすら、その怒りすら美しい。すべての瞬間に感情が充実していて、それを小さな「視野」がしっかりと受け止めている--その感じが伝わってくる。
 この映像の美しさ--それを支えているは、不思議なことに(あるいは、当然のことなのかもしれないが)、言語である。「カメラ」の技術というより、言語である。ただ単にカメラは「視野」、その「領域」を映し出しているだけではなく、常に「対話」している。見えるものと語り合っている。
 たとえば主人公のことばを聞き取る女性。その女性のスカートが風にゆれる。太股でスカートのすそがそっと触る。そのとき、そこには美しい対話がある。「風になって、いま、ぼくはきみのももにそっと触れるよ、感じるかい?」「知ってるわ、悪戯っ子ね、指で触れないときも、いつも目で触っているのね。あなたの視線が触るたび、私は体の奥から輝きはじめる。見えて?」--もちろん、こんな野暮なせりふはそこにはないが、そういう対話が存在している。どんなシーンにも、対話がびっしりつまっている。
 私たちは目で世界を見るが、同時に、ことばで世界を見るのである。ことばで世界と対話する。そのとき映像ははじめて映像になる。「視界」になる。目の見た「世界」になるのだ。
 映像の向こう側で、存在たちがささやきあっている。対話し、たわむれている。生きていることを楽しんでいる。その喜びの声が、映像からあふれてくる。

 この映像の美しさは、また、主人公の「思想」そのものの反映でもある。主人公のことばそのものが何度も引用されている。そのなかでもっとも美しく、力に満ちているのは「私には傷ついていないものがある。左目、まぶた。それ以外に、想像力と記憶。」(正確な引用ではないが……)想像力と、記憶。そして、それを語る「ことば」。「ことば」こそが傷ついていない。
 「ことば」によって主人公は自分自身を語る。いのちを語る。すると、その「ことば」は「ことば」であることを超越して、「映像」になる。「ことば」のすべてが「イメージ」を持ち、そのイメージが動き回るとき、私たちは一瞬それを「映像」と思ってしまう。たとえばこの映画のなかでタイトルともなっている蝶、それがどこまでもどこまでも飛んで行くのをみるとき、私たちは一瞬、蝶を見た、蝶がアルプスを越えて飛ぶのを見たと思うけれど、それは「映像」ではない。「ことば」なのだ。「ことば」だけがとらえることのできる世界を映像はなぞっているだけである。映像が自分の力で蝶をとらえているわけではない。蝶がアルプスを越えて飛ぶということばがないかぎり、その映像は存在しなかった。映像のすべてが「ことば」によって支えられている。映像のすべてが「ことば」によって裏打ちされている。
 この映画の美しさは、そこにある。「ことば」の充実にある。2万回のまばたきでつづったことば、いのちを削ってつづった「ことば」の充実にある。

 ふいに、原作が読みたくなった。本屋に行こう。




潜水服は蝶の夢を見る
ジャン=ドミニック ボービー
講談社

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