詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「古い町」

2008-03-24 01:11:10 | 詩(雑誌・同人誌)
 池井昌樹「古い町」(「葡萄」55、2008年03月発行)
 ふるさとの町について書いている。その後半。

うちへかえるさ
とうちゃんズボン
まえがあいとる
おおまさき
おまえもあいとる
おおわらいした
ちちはしんだし
あのまちもとっくにたえた
こんなとおいとかいでいつか
としをとり
けれどまだペダルをこいで
あそこへと
みんながぼくをまっている
ぼくのかえりをまちわびている
あのふるいまち
いまはないまち

 「みんながぼくをまっている」。この1行に私はどきりとする。「いまはないまち」「ちちはしん」で、そこにはいない。それでも池井は、その町が存在し、父が(そしてここには書かれていないが母が)、「ぼく」を待っていると感じる。不在のものが「存在」となって、そこで実在の池井を待っているのだ。不在と実在を、同じ力で感じ、しかもそれが池井を待っていると感じる。そのことに私はどきりとする。
 また、そのふるさとは、遠いところなのだが、実は遠くないということにもどきりとする。
 「こんなとおいとかい」にいるけれど、池井がいるとき、その池井を見守る形でいつでも「古い町」は池井とぴったりくっついている。共存している。不在のものが実在の池井といつもいっしょにいる。
 「まっている」ということばが象徴的だが、その不在のものは、積極的に池井には働きかけないのである。ただ待っている。(あるときは、見つめている。)いつも、その「まっている」もの、「みつめているもの」との間を池井は行き来している。行き来しながら、その待っているものに通じることばをひっそりとつぶやくのである。待っているものが聞き取れることばを自分の声にするのである。
 ことばで何かを切り開いて行くのではなく、池井を優しく見守り受け入れてくれるものに聞いてもらえることばを探す。そして、そのことばになってしまう。

 作品の前後が逆になるが、前半の部分。

ふるいまちでうまれ
ふるいまちでそだち
ふるいまちでちちと
くじらがみをみたよる
しめったさじきのにおい
ほこりのこもったにおい
おせんにキャラメル
あめふりフィルム
えいががはねて
大小の
さびたペダルこぎ
アーケードのやぶれたまちを
うちへかえるさ

 そこではことばは「形」ではなく、「におい」のように不定形だ。形をもたないまま、呼吸され、呼吸によって身体のなかへ入って行く。そして、吐く息とともに外へ出て、空気そのものをつくってゆく。人々のいりまじった息、におい。存在するけれど、形が不在のもの。--「ふるいまち」は「におい」に似ている。それは、池井が吐く息(ことば)とともに、いつも池井のまわりに出現し、ことばになる。池井がことばを探しているのか、息が自然に「におい」になってしまうのか。
 これは、もう、どうでもいいことなのかもしれない。池井はただ呼吸をする。すると、それが詩になる。
 そこには「うちへかえるさ」の「さ」のように、今では、だれがつかうかわからないような、古い古いことばもまじってくる。そういう古いことばをとおして、池井は「まっている」ひとの方向へ目を向ける。「方向」というより、ここは池井に習って「さ」という表現をつかった方がいいのかもしれないが。そして、「さ」のなかで、いまを振り払い、いまそのものになる。一体になる。
 
 矛盾でしか言い表せない、何かになる。






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