詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

軽谷佑子「ウィンターランド」

2008-03-04 10:24:20 | 詩(雑誌・同人誌)
 軽谷佑子「ウィンターランド」(「現代詩手帖」2008年03月号)
 投稿欄「新人作品」のなかの1篇。藤井貞和が選んでいる。

まどの向こうに降る雨を
みているだけなら好きなんだけど
実際に外へ出て雨にぬれるのはいや
なのだとあのひとは言って
皿に残るソースの染みを
みつめていたのでした
真っすぐな顔をしてこちらをみていた壁と
カーテンがひといきに水をふくみ
それはあのひとの癖で
霧が出て顔が
みえなくなってあたり一面に人の
気配がみちて

 「なのだとあのひとは言って」という1行が何度読み返しても不思議である。
 前の行からの、ことばの「渡り」がある。もし、「渡り」がなかったなら、この作品は「散文」になってしまう。「言って」という表現は「渡り」に飲み込まれて(「渡り」の印象が強すぎで)消え入りそうだが、この「接続」の仕方も微妙な音楽がある。
 乱暴な比較になるが、たぶん比較しないと説明できないことなので、比較してみる。
 この作品の冒頭の6行は「散文」で書けば、

「まどの向こうに降る雨をみているだけなら好きなんだけど、実際に外へ出て雨にぬれるのはいやなのだ」とあのひとは言った。そして、皿に残るソースの染みをみつめていたのでした。

 「言った」と「みつめていたのでした」は、ともに「あのひと」を主語とする動詞である。ひとつの文章にひとつの主語とひとつの動詞。そういう関係でとらえなおすと「散文」はすっきりと読むことができる。(そのために複数の動詞があらわれる文章は、たとえば「 」をつかって、会話仕立てにしたりする。)
 そして、こうして「散文」にしてみると、

なのだとあのひとは言って

 という1行のなかに、「なのだと」という「渡り」と、「言って」という「接続助詞」による「わたり」があることがはっきりする。「言って」という表現は、ごく普通の表現なので、それが次の行に「わたり」として働いていることを見過ごしてしまいがちだが、このふたつの「わたり」が「あのひと」によってしっかり結びついていることが、この作品の魅力なのだ。
 私たちの意識は、あることがらからべつのことがらへ知らず知らずにうつっていく。そのことがここでは「あのひと」を強調するようにして、しっかり結びつき、その結びつきの強調がそのまま「恋歌」になる。

 そして、この「恋歌」という視点から見つめなおすと、もう一度不思議な姿が浮かび上がる。

なのだとあのひとは言って

 「渡り」を強く印象づける「なのだ」はほんとうはだれのことばなのだろうか。「なのだ」はなくても、この1行は「渡り」を構成する。
 「なのだ」は文章としては単なる強調形にすぎないけれど、もしかするとここには「理由」が含まれているかもしれない。そしてその「理由」は実は「あのひと」が感じている「理由」ではなく、「わたし」が納得している(私が思い描いている)「理由」なのかもしれない。この1行の主語は「あのひと」であるけれど、その「あのひと」というのは現実の(いま、ここにいる)「あのひと」ではなく、いま、ここにはいない「あのひと」、記憶の「あのひと」である。
 「あのひと」と「わたし」が入り交じり、融合して、(「恋歌」であるから、一体となってと言った方がいいかもしれないが)、強い「渡り」を構成しているのである。

 「あのひと」が「言う」という構文の「渡り」は最終連にも登場する。

あのひとは海王星で死ぬ
と言ってわたしはくるしい呼吸を
したのでしたいまは
冬の国にいてここは庭
なんの心配もなく座っていると空から
たくさんの冬が降ってきて髪の毛や
腕をおおいわたしは
地面とかわらなくなります

 4行目の「なのだ」(のだ)と言う表現が「あのひと」の口癖であるなら、最終連の2行目も「のだと言ってわたしはくるしい呼吸を」という形をとったはずである。ところが、ここでは「のだ」は含まれていない。
 このことは4行目の「なのだ」が「あなた」の口癖であるというより、「わたし」が付加したものであることを明らかにするだろう。
 「あのひと」と「わたし」の強い一体感--それが「わたし」の方からの「思い込み」。そして、それが崩れる。「一体」であったものが、途中からずれてしまう。「あのひと」と「わたし」の関係を結ぶもの、その「渡り」のなかから「あのひと」が静かに退場し、ただ「わたし」だけが「渡り」を支えている。
 こういうことを「失恋」と言うのだけれど、その「失恋」の苦しみが最終連でせつせつと語られる。
 これはひさびさにあらわれた「失恋」の「現代詩」である。とても胸に響く。この「恋歌」が歌謡曲にならずに、(と書くと、歌謡曲ファンに叱られるかもしれないが)、「現代詩」として屹立しているのは、軽谷が「渡り」を意識的に(明確な批評意識で)つかっているからだろう。ことばに対する批評が含まれる時、詩が誕生するが、軽谷は「渡り」という表現方法を洗い直し、そこに詩を成立させた。「渡り」という表現方法を、独自に、新たに生み出したと言っていいくらいである。

 今年読んだ詩の中では、この作品がいちばんおもしろい。5連から構成されている作品なので、ぜひ、「現代詩手帖」を買って全行を読んでください。引用しなかった部分にも「渡り」が魅力的につかわれている。




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