詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長尾高弘「空室」ほか

2008-03-28 01:21:11 | 詩(雑誌・同人誌)
 長尾高弘「空室」ほか(「tab」9 、2008年03月15日発行)
 とてもおもしろくて、くりかえし読んだ。全行引用する。

信号で右に曲がると、
急に人気がなくなった。
土ぼこりの舞う、
殺風景な坂道を、
上っていった。
アパートの階段も、
上っていった。
ドアを開けると、
部屋には誰もいなかった。
ああ、やっぱりいなかったか。
反対側の窓の向こうに、
墓地が見えた。
誰にも会わなかったのに、
その晩風邪を引いた。

 楽しく読んだ本を図書館に返すので、思い出に気に入ったところを引用
 しておこうと思ったのだが、あったはずの箇所がどうしても見つからな
 いので、記憶の中から引用した。本を返したら私も風邪を引いた。

 最後の3行は注釈なのか、それとも作品なのか。
 私は作品として読んだ。この3行ゆえに、私はこの詩が好きである。

 前半の行変えの部分は、ことばが無造作といっていいくらいさっさと進む。坂を上る、階段を上るという動き、その反復が、ことばそのものの運動になって加速する。どうしたってたどりついたアパートを突き抜けてしまわなければならない。
 「反対側の窓の向こう」とはアパートを突き抜ける窓である。そのまま「私」(書かれていない)は「窓」を突き抜けて、墓地を越える。(階段を引き返すのではない。)
 こんな動きをすれば、誰にも出会えるはずがない。
 そういう出会えるはずもない動きをしておいて、「誰にも会わなかったのに、/その晩風邪を引いた。」と「私」に帰ってくる--このスピードがとてもいい。

 このスピードを、「物語」にいっきに閉じ込めてしまう3行が、なんとも楽しい。アパートをたずねる動きが、そのまま「本」をたずねる動きになって加速する。アパートに行ってみて「ああ、やっぱりいなかった。」とつぶやくように、「私」は本を開いて「ああ、やっぱり(その文は)いなかった。」とつぶやき、その「反対側の窓の向こうに、」飛び出して行くしかないのである。
 反復することで、その存在しないものを存在させてしまうのである。
 反復とは、存在しないものを、存在させる方法なのである。ことばで何かを繰り返すとき、ことばはことばであることをやめ、実在になる。(存在になる。)
 書くことの「意味」があるとすれば、たぶん、ここにある。

 ひとはことばを書く。詩人は、ことばを書く。まだそこにないものを、ことばで反復し、提出する。そのことばを読者が反復する。すると、そこにほんとうは存在しないものが立ち現れる。筆者と、読者の反復によって、非在が実在に変わる。
 この非在から実在への変化は、ことばが出会った一瞬にくっきりと感じられるものであって、それをもう一度あとから探そうとしても、「私」が本の中に「あったはずの箇所がどうしても見つからない」ように、再発見不能のものである。
 一度反復したのに、それ以上の反復を許さない何か。一期一会の「詩」。そういうものを、長尾は軽やかに提出している。

 も一篇の「謝る人」も同じである。

テレビで食中毒のニュースを見ていたら、
知っている顔がアップで出てきた。
何十年も会っていないけれど、
あれは元同級生。
若いときの印象とは、
随分かけ離れていたが間違いない。
おかげで、
普通なら消費者の立場で考えるべきニュースが、
逆立ちしてしまった。

 「ニュースが、/逆立ちしてしまった。」
 ことばは加速して、とんでもない動きをする。その動きのなかの「一期一会」。同級生の顔の反復がその奥にある。いまの顔、若いころの顔、その反復運動が加速して、いまを突き抜ける。「消費者の立場で考えるべき」なのに、それを逸脱する。(「考えるべき」の「べき」が長尾らしく生真面目であるのが、とても楽しい)
 日常の、ふいの逸脱。その、ことばの軽さ。楽しさ。

 久々に長尾の詩を読んだが、また新しい次元を書きはじめたような印象があって、とても楽しい。

コメント
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