朝倉裕子『詩を書く理由』(編集工房ノア、2008年03月18日発行)
安水稔和のカルチャー講座で詩を学んでいるひとり。「現代詩」の重要な要素のひとつは、言語に何ができるかを実験するということ。朝倉にそういう意識があるかどうかはわからない。むしろ、実験などはせず、ことばと現実をていねいに向き合わせ、ことばのなかで正直になろうとしている。そういう感じがする。素朴な詩である。そして、その素朴さの中に、「実験」とは無関係に、ふいにことばが力を獲得する瞬間がある。
「冬の日に」の全行。
「生えだしたようにして立つ」。この1行。その「生えだした」ということば。ここに朝倉の生きる力を感じた。
ポストはもちろん「生えだし」たりはしない。誰かが設置する。しかし、それを自分の力で地面を突き破って「生えだし」てきたようにみるとき、その瞬間に朝倉は何かを突き破って生きようとするポストそのものなのである。「生えだし」たりしないポストを「生えだしたように」と書く瞬間、朝倉はポストそのものになる。地面を破って「生えだ」す力そのものになる。
とポストを描写するとき、朝倉は、単純な形で待つという志を生きていることになる。
短い詩である。そして、その短い詩のなかで、朝倉はことばを動かすことで、それまでの「私」を乗り越えている。「私」ではなくなっている。「私」ではなく「ポスト」になっている。
この変化の中に詩がある。
もし、これが「現代詩」の書き手なら、そうやってポストになってしまった瞬間から、ことばは逸脱して行く。実験の領域に入って行く。
朝倉は、そういう実験を生きる勇気(?、野蛮と言うべきか)は持っていない。
だから、2連目で「ポスト」であることをやめて「私」に戻ってしまう。
この「私」に戻ってしまう姿勢の中に、生きる悲しみ、せつなさがある。
「その一途な想いに惹かれて」の「その」という論理の引き受け方に、朝倉の生きる悲しみがある。「その」ということばで論理を引き受けてしまう精神の悲しみ。論理の悲しみ。さびしさ。
ことばを書くことで「私」ではなくなる。けれども、やはりことばにひきずられて「私」に戻ってしまう。
--この2連でつくられた詩の中に、実は、多くの詩のかかえている「課題」のようなものがある。
流通することばはいつでも、ことばの逸脱を引き戻そう引き戻そうとする。「枠」のなかに人間を、精神を閉じ込めようとする。そして、その「枠」のなかにおさまると、それは一種の「抒情」になって、ひとを(読者)を安心させることになる。「そうなんだなあ、その気持ちわかるなあ」という共鳴のなかに人間を閉じ込めてしまって、人間が人間で開くなる、自分が自分でなくなる、自己から逸脱して行くという可能性を封じ込めることになる。
私の書いていることは、もしかすると朝倉には届かないかもしれない。
「その」ということばを振り捨てて、ポストになってしまって、現実と向き合うとき、そこから「現代詩」がはじまるのだと書いても、朝倉はきょとんとするかもしれない。そういう生き方は朝倉の目指しているものでない、と簡潔に言うかもしれない。それでも、こういうことを書かずにいられないのは、もし朝倉が、「その」ではじまる論理に引き返さずに、ポストとして生きて、現実と向き合えば、その先にもう一度「生えだしたように立つ」につながる深いことばを探り当てるかもしれないという期待があるからだ。
「生えだしたように立つ」という1行には、そういう期待を抱かせる力がある。
安水稔和のカルチャー講座で詩を学んでいるひとり。「現代詩」の重要な要素のひとつは、言語に何ができるかを実験するということ。朝倉にそういう意識があるかどうかはわからない。むしろ、実験などはせず、ことばと現実をていねいに向き合わせ、ことばのなかで正直になろうとしている。そういう感じがする。素朴な詩である。そして、その素朴さの中に、「実験」とは無関係に、ふいにことばが力を獲得する瞬間がある。
「冬の日に」の全行。
空を降り仰ぐ いちょうの木の
いっせいに伸ばした
裸の枝の一本一本が
冬の日に照らされて
さざめいている
その根元から
生えだしたようにして立つ
小さなポスト
簡潔な形と
待つという単純なこころざし
その一途な想いに惹かれて
足を止める
もしこのように生きるとしたら
私はいったい何を
待つだろうか
「生えだしたようにして立つ」。この1行。その「生えだした」ということば。ここに朝倉の生きる力を感じた。
ポストはもちろん「生えだし」たりはしない。誰かが設置する。しかし、それを自分の力で地面を突き破って「生えだし」てきたようにみるとき、その瞬間に朝倉は何かを突き破って生きようとするポストそのものなのである。「生えだし」たりしないポストを「生えだしたように」と書く瞬間、朝倉はポストそのものになる。地面を破って「生えだ」す力そのものになる。
簡潔な形と
待つという単純なこころざし
とポストを描写するとき、朝倉は、単純な形で待つという志を生きていることになる。
短い詩である。そして、その短い詩のなかで、朝倉はことばを動かすことで、それまでの「私」を乗り越えている。「私」ではなくなっている。「私」ではなく「ポスト」になっている。
この変化の中に詩がある。
もし、これが「現代詩」の書き手なら、そうやってポストになってしまった瞬間から、ことばは逸脱して行く。実験の領域に入って行く。
朝倉は、そういう実験を生きる勇気(?、野蛮と言うべきか)は持っていない。
だから、2連目で「ポスト」であることをやめて「私」に戻ってしまう。
この「私」に戻ってしまう姿勢の中に、生きる悲しみ、せつなさがある。
「その一途な想いに惹かれて」の「その」という論理の引き受け方に、朝倉の生きる悲しみがある。「その」ということばで論理を引き受けてしまう精神の悲しみ。論理の悲しみ。さびしさ。
ことばを書くことで「私」ではなくなる。けれども、やはりことばにひきずられて「私」に戻ってしまう。
--この2連でつくられた詩の中に、実は、多くの詩のかかえている「課題」のようなものがある。
流通することばはいつでも、ことばの逸脱を引き戻そう引き戻そうとする。「枠」のなかに人間を、精神を閉じ込めようとする。そして、その「枠」のなかにおさまると、それは一種の「抒情」になって、ひとを(読者)を安心させることになる。「そうなんだなあ、その気持ちわかるなあ」という共鳴のなかに人間を閉じ込めてしまって、人間が人間で開くなる、自分が自分でなくなる、自己から逸脱して行くという可能性を封じ込めることになる。
私の書いていることは、もしかすると朝倉には届かないかもしれない。
「その」ということばを振り捨てて、ポストになってしまって、現実と向き合うとき、そこから「現代詩」がはじまるのだと書いても、朝倉はきょとんとするかもしれない。そういう生き方は朝倉の目指しているものでない、と簡潔に言うかもしれない。それでも、こういうことを書かずにいられないのは、もし朝倉が、「その」ではじまる論理に引き返さずに、ポストとして生きて、現実と向き合えば、その先にもう一度「生えだしたように立つ」につながる深いことばを探り当てるかもしれないという期待があるからだ。
「生えだしたように立つ」という1行には、そういう期待を抱かせる力がある。