詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

寺山修司『月蝕書簡』

2008-03-22 11:37:21 | その他(音楽、小説etc)

地平線描きわすれたる絵画にて鳥はどこまで墜ちゆかんかな

 こういうことは現実にはありえない。実際の鳥は、描かれた地平線へ落下するわけではない。また、鳥は地平線へ落下するのではなく、あくまで地上へ、地面へ落ちる。さらに、絵画のなかの鳥は、それが落下する鳥であっても、絵のなかでは止まっている。空中の一点にある。地平線が存在しないので、鳥は果てしなく落ちて行くしかない--というのはことばの中だけの世界である。
 こういうことは、すべて「わざと」書かれているのである。ここにかかれていることばは、すべて「わざと」である。その「わざと」のなかに詩がある。
 寺山はことばのなかで生きていた。ことばのなかで、ことばを動かすことで生きていた。「わざと」ことばを動かし、ことばでしかたどりつけない世界を描くことで生きていたのだ。想像力を解放していた。想像力を解放し、その快感を得ていた。それが詩である。

 この短歌では、最後の「墜ちゆかんかな」の「かな」も好きである。「かな」がほんとうに必要なものかどうか私は知らない。「かな」がない方が、私は不安定で好きだ。「かな」があるために、短歌が「歌」になっている。この「かな」によって「快感」が酩酊になる。酩酊によって、「快感」が快感を超越するという特権を獲得する。
 感情・思想を短歌にこめるだけではなく、歌にしてしまう。それを快感に、しかも特権的な快感にしてしまう。それが寺山なのだと思う。歌にすることで感情を(思想を)安定させる。「抒情」という世界に封じ込める。封じ込めることで、充実させ、同時にそうすることで、それはことばだけの世界であると宣言する。
 そうした「宣言」のあり方が私は大好きだ。

出奔後もまわれ吃りの蓄音機誰か故郷を想わ想わ想わ

 この短歌も好きである。レコードが傷のために同じ所をなんども繰り返す。そして、その「想わ」の繰り返しが、語尾を書くことによって激しく望郷を呼び起こす。一種の矛盾。ことばとして完璧ではないために、逆にことばが言おうとしていることを浮かび上がらせる。足りないものを求めて、ことばが、書かれていないことばが、書かれているときよれりも濃密に襲いかかってくる。その濃密さが酩酊を誘い、快感を生む。「想わ想わ想わ」という破調が、その酩酊に拍車をかける。快感に拍車をかける。破調という逸脱が、酩酊、快感におぼれることを積極的に許すのである。



 「破調」「破綻」。破れる--これは「敗れる」にも通じるのだが、その「敗北」をさらに「破り」拡大するというのが寺山のひとつの手法かもしれない。
 この歌集には家族が大勢登場する。父、母、おとうと、姉……。そうした作品から2首。

ビー玉を一つ失くしてきたるおとうとが目を洗いいる春のたそがれ

 ビー玉は遊具のビー玉であるが、それに「目を洗いいる」ということばが続くと、その瞬間にビー玉は義眼にかわる。そして、まるで義眼を一つ落としてきた弟が義眼の変わりにビー玉を洗っているような印象を呼び起こす。
 もちろんそうなことは私の想像力のなかで起きることであって、実際には書いてはいない。書いていないけれど、そんなふうな錯覚を誘う。そして、その錯覚のなかで私は酔ってしまう。書かれていない「過去」というか、秘密に。弟は義眼である、という秘密に。その秘密が、突然あらわになって、現在を突き破り、過去(すでに規定の事実としての秘密)がまるで「未来」のように噴出してくるように感じる。

酔いて来し洗面台の冬の地図鏡のなかで割れている父

 「割れている」のは父そのものではない。父は肉体を持っている。それが割れた鏡に映っているということなのだが、そのイメージは鏡が割れているを通り越して父そのものの亀裂、破れ目、破綻、敗北へと連想を運ぶ。
 「冬の地図」の不思議さが、それに拍車をかける。
 「洗面台の冬の地図」。何? 「地図」がなぜ「洗面台」といっしょになければならない? 地図は地図ではない。「割れている父」そのもののたどった「過去」なのである。過去がここでも現在を突き破り、未来として噴出しているのである。

 こう書きながら、私は「劇」(芝居)を思い出している。演劇とは、常に時間とともに存在する。登場人物はそれぞれ「過去」を持って現在(同時間)に舞台の上にいる。役者は「過去」を「現在」のなかで表現しなければならない。(過去を表現しないと、存在感のない、薄っぺらな人形になる。)演劇の時間は「いま」でありながら、常に「過去」をかかえこみ、その「過去」が「現在」を突き破り、「未来」へ突き進む。その破壊のなかに、ドラマがある。
 寺山は短歌のなかでも「劇」を演出していたのである。寺山のことばはいつでも「劇」そのものに結びついていた。短歌も寺山にとっては「劇」だった。ことばで、家族を登場させ、ことばの肉体で「劇」を演じさせていたのである。




月蝕書簡―寺山修司未発表歌集
寺山 修司
岩波書店、2008年02月28日発行

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