監督 ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン 出演 トミー・リー・ジョーンズ、ハビエル・バルデム、ジョシュ・ブローリン
傑作「ファーゴ」の別バージョンという趣がある。私は「ファーゴ」の方が格段に好きである。「ファーゴ」のあとでは、どうしても「ファーゴ」の二番煎じという感じがしてしまう。
それでも傑作である。
映像がまず美しい。最初の荒野、砂漠の美しさは異様である。ワイエスが描いた田舎をそのまま荒野へ移行したようなはりつめた空気の美しさに圧倒される。アメリカ映画で風景に見とれるというのは「ブロークバックマウンテン」以来だが、これは監督がアメリカ人ではない。アメリカ人の監督の風景は私にはどうにもなじめないが、唯一、コーエン兄弟の風景だけは美しいと感じる。たとえば「ミラーズ・クロッシング」の森。
そしてこの美しさは「無意味」ではない。つまり登場人物と無関係ではない。きちんとリンクしている。荒野の風景のなかに登場してくる人物は常にひとりで生きている。彼は偶然大金を見つけて、そのことをきっかけにこの映画の物語がはじまるのだが、彼は常に「荒野」を生きている。彼には妻がいて、妻にはそれにつながる家族がいるのだが、彼にはそうした人物はとても遠い。いっしょにいても、とても遠い。人間関係のなかに、とてつもなく広い空間(荒野)がある。そして、その荒野としての空間(人間関係)には密接なつながりはない。愛があったとしても、それは荒野で行き違う人間に対する愛に似ている。なつかしさだ。けっして、相手を束縛しようとはしない。互いに束縛せず生きている。そういう「掟」のようなもので、ひっそりと連動している。そういう美しさである。
あと2人、重要な人物が登場するが、その2人もそれぞれの風景をもっている。大金を見つけた男を追う殺し屋。彼の風景は空間を持たない。彼はただ人物だけを見る。殺す相手だけを見る。ほかに何もない。それは別な視点でいえば「凶器」の視点である。彼は、殺しの道具そのものである。それ以外の何者でもない。そして、彼は風景を持たないかわりに、とんでもない「風景」をつくりだして行く。いままで存在しなかった「風景」をつくりだして行く。たとえば、最初の殺しのシーン。手錠をつかって保安官を殺す。殺される保安官が必死になってあばれる。そのとき靴が床をひっかく。リノリウムの床に、保安官の足が動いたあとが無数の線となって残る。そういう、存在してはならない「風景」をつくりだして行く。この映像は、とてつもなく美しい。映画のなかに刻印された、もっとも美しい殺人現場である。
もうひとりの男。彼には「風景」がわからない。「風景」が現実のものとして感じられない。昔は「風景」があった。しかし、いまは、次々に新しい「風景」がつくりだされ、それがなぜ存在するのかわからない。どう風景と向き合っていいかわからない。その戸惑いが、先に上げた保安官殺害現場の「風景」を見たときのとまどいとしてくっきり描かれる。これは何? なぜ、こんなふうにして人間が生きてきた痕跡が残されている? (ここから私は「長江哀歌」を思い出す。「長江哀歌」をしのぐ美しい映像をスクリーンに定着させる監督がいるとしたらコーエン兄弟だけだと思う理由はここにある。コーエン兄弟は生活とかけ離れたふ「風景」も美しく描くが、その「美しさ」が常に生活との対比のなかにあることを深く自覚している。)この残された「風景」を現実の人間関係にもどしてゆくとき、「風景」は「事件」にかわる。ここに、この映画に「保安官」が登場しなければならない理由がある。(とてもよくできた脚本だ。)
この三つの風景は、出会う。出会うけれど、それは最後まで別々のままである。出会って、そこで変化が起きる、ということはない。変わらない。分離したまま、そこに存在し続ける。
--たぶん、ここにこの映画の「現代性」がある。悲しみがある。おかしさがある。絶望がある。
映画にしろ、小説にしろ、多くの作品にはカタルシスがある。人と人が出会い、ぶつかり、そこで人間が変わる。主人公がそれまでの生き方をかえる。いわば生まれ変わる。その瞬間に観客や読者は感動する。喜びや悲しみを共有し、自分自身の感情・感性・知性を洗い直す。それが普通である。
しかし、この映画では、人と人は出会い、ぶつかるが、誰一人として自分の人生を変えはしない。何もかわらない。3人は3人のまま、彼ら自身の「風景」を抱いて生きているだけである。そういう悲しみとおかしさと、絶望がある。そして、それぞれの「風景」が完璧に美しい。完成されている。逃げる男の「荒野」、殺し屋の「オリジナルの銃」、保安官の「日常」(日常と書くのは、それが私の生活にいちばん近いからである)。まじりっけなしに、純粋に、ほんとうにそれは美しい。
三つの「風景」は、ほんとうは出会ってはいけないものである。そういう世界が存在してもかまわないというと変だけれど、盗み、殺しというような「風景」(事件)は、普通、私たち一般人(?)が出会ってはいけないものである。そういう出会っていけないものが、なぜか出会うようになってしまったのが、現代のかなしみであり、おかしさであり、絶望である。
象徴的なのが、荒野の中の小さな店のシーン。殺し屋と店の店主。話が合わない。殺し屋の、「この男は殺すべき男かどうか」という視線のなかで、店長の「風景」がどんどんかわっていく。殺し屋の「風景」に浸食されて、ずたずたになる。それを防ぐ方法はない。おかしくて、かなしくて、絶望するしかない。
こんな現代を私たちはどうやって生きていけばいいのだろうか。
最後の最後にトミー・リー・ジョーンズが語る美しい美しいシーンがある。絶望しながらも、その絶望のなかでつかんだ透明な祈りがある。これにつていは、ここでは書かない。ぜひ、見てもらいたい。この文章を読んでくれた人、みんなに見てもらいたい。この美しいシーンと、トミー・リー・ジョーンズの哀しい目を見てほしい。
ハビエル・バルデムはたしかにすばらしい。だが、トミー・リー・ジョーンズもすばらしい。ラストシーンは永遠に残る名演である。
*
次の2本は絶対に見よう。
傑作「ファーゴ」の別バージョンという趣がある。私は「ファーゴ」の方が格段に好きである。「ファーゴ」のあとでは、どうしても「ファーゴ」の二番煎じという感じがしてしまう。
それでも傑作である。
映像がまず美しい。最初の荒野、砂漠の美しさは異様である。ワイエスが描いた田舎をそのまま荒野へ移行したようなはりつめた空気の美しさに圧倒される。アメリカ映画で風景に見とれるというのは「ブロークバックマウンテン」以来だが、これは監督がアメリカ人ではない。アメリカ人の監督の風景は私にはどうにもなじめないが、唯一、コーエン兄弟の風景だけは美しいと感じる。たとえば「ミラーズ・クロッシング」の森。
そしてこの美しさは「無意味」ではない。つまり登場人物と無関係ではない。きちんとリンクしている。荒野の風景のなかに登場してくる人物は常にひとりで生きている。彼は偶然大金を見つけて、そのことをきっかけにこの映画の物語がはじまるのだが、彼は常に「荒野」を生きている。彼には妻がいて、妻にはそれにつながる家族がいるのだが、彼にはそうした人物はとても遠い。いっしょにいても、とても遠い。人間関係のなかに、とてつもなく広い空間(荒野)がある。そして、その荒野としての空間(人間関係)には密接なつながりはない。愛があったとしても、それは荒野で行き違う人間に対する愛に似ている。なつかしさだ。けっして、相手を束縛しようとはしない。互いに束縛せず生きている。そういう「掟」のようなもので、ひっそりと連動している。そういう美しさである。
あと2人、重要な人物が登場するが、その2人もそれぞれの風景をもっている。大金を見つけた男を追う殺し屋。彼の風景は空間を持たない。彼はただ人物だけを見る。殺す相手だけを見る。ほかに何もない。それは別な視点でいえば「凶器」の視点である。彼は、殺しの道具そのものである。それ以外の何者でもない。そして、彼は風景を持たないかわりに、とんでもない「風景」をつくりだして行く。いままで存在しなかった「風景」をつくりだして行く。たとえば、最初の殺しのシーン。手錠をつかって保安官を殺す。殺される保安官が必死になってあばれる。そのとき靴が床をひっかく。リノリウムの床に、保安官の足が動いたあとが無数の線となって残る。そういう、存在してはならない「風景」をつくりだして行く。この映像は、とてつもなく美しい。映画のなかに刻印された、もっとも美しい殺人現場である。
もうひとりの男。彼には「風景」がわからない。「風景」が現実のものとして感じられない。昔は「風景」があった。しかし、いまは、次々に新しい「風景」がつくりだされ、それがなぜ存在するのかわからない。どう風景と向き合っていいかわからない。その戸惑いが、先に上げた保安官殺害現場の「風景」を見たときのとまどいとしてくっきり描かれる。これは何? なぜ、こんなふうにして人間が生きてきた痕跡が残されている? (ここから私は「長江哀歌」を思い出す。「長江哀歌」をしのぐ美しい映像をスクリーンに定着させる監督がいるとしたらコーエン兄弟だけだと思う理由はここにある。コーエン兄弟は生活とかけ離れたふ「風景」も美しく描くが、その「美しさ」が常に生活との対比のなかにあることを深く自覚している。)この残された「風景」を現実の人間関係にもどしてゆくとき、「風景」は「事件」にかわる。ここに、この映画に「保安官」が登場しなければならない理由がある。(とてもよくできた脚本だ。)
この三つの風景は、出会う。出会うけれど、それは最後まで別々のままである。出会って、そこで変化が起きる、ということはない。変わらない。分離したまま、そこに存在し続ける。
--たぶん、ここにこの映画の「現代性」がある。悲しみがある。おかしさがある。絶望がある。
映画にしろ、小説にしろ、多くの作品にはカタルシスがある。人と人が出会い、ぶつかり、そこで人間が変わる。主人公がそれまでの生き方をかえる。いわば生まれ変わる。その瞬間に観客や読者は感動する。喜びや悲しみを共有し、自分自身の感情・感性・知性を洗い直す。それが普通である。
しかし、この映画では、人と人は出会い、ぶつかるが、誰一人として自分の人生を変えはしない。何もかわらない。3人は3人のまま、彼ら自身の「風景」を抱いて生きているだけである。そういう悲しみとおかしさと、絶望がある。そして、それぞれの「風景」が完璧に美しい。完成されている。逃げる男の「荒野」、殺し屋の「オリジナルの銃」、保安官の「日常」(日常と書くのは、それが私の生活にいちばん近いからである)。まじりっけなしに、純粋に、ほんとうにそれは美しい。
三つの「風景」は、ほんとうは出会ってはいけないものである。そういう世界が存在してもかまわないというと変だけれど、盗み、殺しというような「風景」(事件)は、普通、私たち一般人(?)が出会ってはいけないものである。そういう出会っていけないものが、なぜか出会うようになってしまったのが、現代のかなしみであり、おかしさであり、絶望である。
象徴的なのが、荒野の中の小さな店のシーン。殺し屋と店の店主。話が合わない。殺し屋の、「この男は殺すべき男かどうか」という視線のなかで、店長の「風景」がどんどんかわっていく。殺し屋の「風景」に浸食されて、ずたずたになる。それを防ぐ方法はない。おかしくて、かなしくて、絶望するしかない。
こんな現代を私たちはどうやって生きていけばいいのだろうか。
最後の最後にトミー・リー・ジョーンズが語る美しい美しいシーンがある。絶望しながらも、その絶望のなかでつかんだ透明な祈りがある。これにつていは、ここでは書かない。ぜひ、見てもらいたい。この文章を読んでくれた人、みんなに見てもらいたい。この美しいシーンと、トミー・リー・ジョーンズの哀しい目を見てほしい。
ハビエル・バルデムはたしかにすばらしい。だが、トミー・リー・ジョーンズもすばらしい。ラストシーンは永遠に残る名演である。
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