詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ウェス・アンダーソン監督「ダージリン急行」

2008-03-21 08:41:08 | 映画
監督 ウェス・アンダーソン 出演 オーウェン・ウィルソン、エイドリアン・ブロディ、ジェイソン・シュワルツマン

 色がとても美しい。インドを走る列車。インドの荒野。そして空気。と、空気ということばを書いて急に気がつくのだが、この映画は空気が美しい。透明で透き通っている。スクリーンでこんなに透き通った空気を見るのははじめてという気持ちさえする。この透明な空気が空気だけでなく、まわりのもの、つまり登場人物をどんどん透明にしてゆく。旅を続けるにしたがって、3人の兄弟がどんどん透明になっていく。
 人間というのはそれぞれがわがままだし、わがままの裏返しのようにしてひとりだけの秘密を持っている。そのわがままや秘密がどんどんそぎ落とされて透明になる。他人のことばというものはたいていひとの体をくぐり抜けるとき屈折し、歪むものだけれど、映画の3人の兄弟のことばは他人の体の中へ入っても歪まない。屈折しない。全部、まっすぐな真実になる。この感じがとてもいい。
 象徴的なのが最後のシーン。3人は列車に乗るために走る。列車はすでに出発している。走って、走って、走って、じゃまな鞄を棄てて走って、やっと列車に飛び乗る。3人とも手ぶらになっている。手ぶらになって、ホームに転がっている鞄を見つめる。「自分」というもの以外はすべてすてて、その瞬間に、長い長い旅は終わる。旅は、余分なものを棄てるためのもの、余分なものを棄てて、自分自身に還るためのもの。そういうものなのかもしれない。
 そして、自分自身に還って何があるか、というと実は何もない。ただいま起きていることを受け入れる、そういうことだけかある。いまここにある空気、いまここで生きているということを受け入れる。それで十分。それで満足。

 抽象的に書きすぎたかもしれない。私の書いたことは、そしてたぶんどうでもいいことなのだと思う。

 この映画の魅力は、なんといってもインドである。インドの光。インドの空気。その空気にあわせたインドの色。
 3人の兄弟はそろって赤い鞄を持っている。その赤の、独特の静かな華やかさ。列車のなかの調度の色。インドの村の家の室内の色。水色。その調和がとても美しい。
 映画というのはストーリーを持っている。そして多くのひとはストーリーについて話したりもするのだけれど、この映画はストーリーなんか話してもおもしろくはない。ストーリーにならない部分、空気の色、光の色、画面画面の色のバランス。そういうところになんともいえない魅力がある。
 この透明なインドの美しさ、存在をシンプルに輝かせる大地と光、それをスクリーンに定着させたくて、ウェス・アンダーソンは映画を撮ったのだと思う。インドへ行って、列車に乗って、歩いて、走って、透明になりたい、という気持ちになってくる。

 パーフェクトな映画である。

*

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工藤直子「待合室」

2008-03-21 00:34:35 | 詩(雑誌・同人誌)
 工藤直子「待合室」(「密造者」71、2007年10月20日発行)
 工藤直子の詩について、また書きたくなった。どうということはない詩、という感じがする。そういう感じはするのだが、不思議とひかれる。
 「待合室」は待合室で居眠りをしているひとを描いたものである。うつらうつらを通り越し、口を開けて眠っている。その2連目から。

口の中がきらりと光った
これが見せたかったのか
舌も出てきた
お--ずいぶん長くなるのものだ
こうなったら洞窟の探検だ
口の中に潜入してみよう
金歯も光っているけど
虫歯もいっぱいだ

涎もいっぱいで すべるすべる
おっとっと するりと滑って
ひっくり返った
長い舌の上はざらざらだ
悪いものでも呑み込んだのか

にやっと笑って口が歪んで
あぶないあぶない 閉まりそうに
ごっくんなんて 呑みこまれたら
大変だ

 2連目は通俗的である。そして、2連目が通俗的であることによって、3連目が輝く。舌の「ざらざら」と「悪いものを呑み込んだのか」とを結びつけるとき、その「悪いもの」が口の奥、口からずーっと続いていく肉体の先、腹の中にうごめいているようではないか。
 そういうことを連想させて、一呼吸。
 「にやっと笑って口が歪んで」までの1行空き。これが絶妙だ。とてもおもしろい。「にやっ」が特に楽しい。悪人(?)の魅力がたっぷりである。悪というのはいつでも好奇心をくすぐる。触れてはいけないものに触れることほど楽しいことはない。そう誘いかけてくるようではないか。
 工藤は、しかし、そういう世界へはまっすぐには入って行かない。ちゃんと(?)引き返す。「あぶないあぶない」と言ってみせる。あるいは「あぶないあぶない」と言うことで、どこか、自分自身を守っている。こういうときのタイミングというか、リズムがおもしろい。
 工藤の詩は文字として書かれているけれど、この詩などは、文字というよりも「お話」というか、声に出して伝えられたとき、その魅力がもっと輝くだろうと思う。ことばのリズムが肉体というか、日常の会話の「空気」をたっぷり含んでいる。研ぎ澄まされているのではなく、どこかあいまいで、逃げ道がいっぱいあるような感じの「空気」。問い詰められたら「あれっ、そんなこと言ったっけ。聞き違いじゃない?」とシラを切りそうな図太さがある。
 工藤のことばは、どこかで読者の反応(聞き手の反応)をうかがいながら動いている。この他人の反応をうかがいながら動くというのは、日常ではごくありふれたことだけれど、書きことばではとても珍しい。書きことばは、どうしても「独走」(暴走?)しがちである。そして、その「暴走」に「現代詩」の一種の魅力があるのは事実なのだけれど、こうやって他人の反応をうかがって動くことばを読むと、「暴走」なんて、結局は独りよがりなんじゃないか、という気持ちにさせられる。
 そういう変な気持ちを引き起こす魅力が、工藤のことばにはある。


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