詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

近藤弘文「蜜蜂」

2008-03-29 10:44:00 | 詩(雑誌・同人誌)
 近藤弘文「蜜蜂」(「tab」9 、2008年03月15日発行)
 光かあふれている。ことばに。ことばが新しい光を発している。まるで太陽のように、直視することを拒絶し、ただ光っている。「蜜蜂」の全行。

だから言語的鉱物も
飴玉のように胃を照らすことはなく
青空は幽霊の噂が絶えない
あなたという装置
なけなしの万年雪としてたった一行
誰もいない蜜蜂
って知っていますか
木の真下から空を見上げて
小声が落ちているのは
折りたたまれた光のひたいに、である
じっと動かずに動かない
ぶつける木の実をさがしています
遠くから字を書くよ
を撫ぜるのはきっとわたしで
誰かが煉瓦を割っている
のもきっとわたしで
たった一行の
光をぬけていった蜜蜂は
ひとはみない瞳
そんな死体ごっこ

 ここにあるのは「断定」だけである。
 「だから」という「理由」を説明することばで作品ははじまるが、なぜ「だから」なのか、理由をいわなければならない「原因」が欠落している。そんなものは存在しない。そこから、直に、「理由」だけが駆け出す。「原因」を拒絶し、ただ「断定」だけが、無軌道に(つまり自由に)疾走する。
 ことばは「解読」されることを拒絶している。
 おそらく、これらのことばは、近藤をすらも拒絶している。近藤であって、近藤ではないものがことばを動かしている。つまり、詩、そのものがことばを動かしている。

折りたたまれた光のひたいに、である

 この1行の、読点「、」と「である」の断定の呼吸。ここにこの作品のすべてがある。あらゆる行に「、である」がほんとうは隠れている。「、である」を補って行くとき、近藤という人間が浮かび上がってくる。それが省略されていることによって、近藤が隠れ、詩が光となって発射される。
 なぜ、この行だけ、「、である」が存在するのか。
 ことばの光のスピードに呑み込まれ、おぼれ、流され、おぼれながら流されていることに気づいて、必死になって近藤は息をしたのだ。水におぼれる人間も、ずっと水中にいるわけではない。必ず1度はもがきにもがいて空気を吸う。呼吸をする。そして、その呼吸によって、さらにおぼれる。一呼吸がさらにおぼれていることを証明し、「おぼれ」が加速する。「おぼれ」が加速していることを知る。加速は、実は、その1行の前から激しくなっているのである。

木の真下から空を見上げて
小声が落ちているのは
折りたたまれた光のひたいに、である

 「見上げ」と「落ちている」という上下の運動。それが結びついて「折りたたまれ」のなかで圧縮される。圧縮されたものは、いつでももとの状態、上下の運動へともどる準備をしている。そのうごめきがバネになって、ふいに近藤は「おぼれる」という状態から吐き出されて、一瞬だけ「、である」と呼吸したのである。近藤が断定しているんだぞ、と自己主張したのである。おぼれている、という状態があるのは、近藤がいるからだぞ、と自己主張したのである。
 だが、詩の激流はいうだろう。
 ことばが近藤をおぼれさせてやっているのだ、と。「死」をくぐりぬけさせてやっているのだ、と。そんなふうに近藤が、ことばのなかを生きることで近藤ではなくなってしまう瞬間を体験させてやっているのだ、と。
 最後の1行に「死体」ということばがおかれているが、これは「死」による覚醒のひとつのかたちである。この作品そのものを象徴することばである。

 遠くから字を書くよ

 という行もこの作品を象徴しているかもしれない。近藤が書くのではなく、近藤を超越したことばが「字を(近藤を利用して)書く」。「遠くから」。「遠くから」とは近藤の手の届かない距離から、つまり近藤を超越した「場」からという意味である。

 書くのではなく、書かせられる詩の幸福が光となってあふれている作品である。

コメント
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