たなかみつあき「(ミリ単位で隆起する地形の傷口を…)」(「庭園 アンソロジー2008」2008年02月22日発行)
年03月10日の日記で取り上げた杉本徹「(頬よせる車窓をつかのま…)」とことばの印象がとても似ている。タイトルの書き方も同じである。二人で競作というか、交互に作品を書きあったのかもしれない。「往復詩」なのかもしれない。
杉本が
と書いたのに対し、たなかはどう答えるか。
「かわく」に対して「生乾き」、「天体」に対して「雨中」。「雨中」を「うちゅう」と読むと、それは「宇宙」=「天体」になる。意識的か、無意識にか、私にはわからないが、そこには不思議な呼応がある。
たなかの「無風のうしろで」の「うしろ」ということばに私は強い魅力を感じた。杉本は「照り返し」ということばをつかっていた。「光」ということばもつかっていた。杉本のことばが、何か、前進していくのに対して、たなかのことばは「うしろ」が象徴するように、前進はしない。つねに「背後」を耕す。前進してきても、「いま」、その「存在」のその位置までである。それから先へは進まない。
2連目の全行。
「生乾きの理髪店でカミソリがいきなり顎に接近する」という行は、現実には、カミソリが省略されている「私」の外部から「私」の「顎」へ接近してくるのだが、なぜか私には「私」の内部から接近してくるように感じられる。現実の位置としては、カミソリを持つ人が「私」の「うしろ」にいて、「うしろ」にいる理髪師の手にあるカミソリが「私」の前方から「顎」へ接近してくるという動きが考えられるのだが、たなかのことばの「うしろ」には、なぜか「内部」という印象があり、そのために、私は一種のまぼろしのようにして、カミソリが独自に「私」の内部からひげを剃っていくように感じてしまうのである。
それに先立つ行に「神経」ということばがあるせいかもしれない。「肉体」の内部にあるもの、「肉体」の表面の「うしろ」に存在するもの。何か、「うしろ」という領域にあるものの方が、存在の「外部」そのものと呼応するような感じなのだ。
うまく言えないが、「宇宙論」が「素粒子論」と呼応するような感じ。「外部」が「宇宙論」で「うしろ(内部)」が「素粒子論」である。
「りんご」という存在は「皮」をむかれて「宇宙論」の輪郭を失い、「素粒子論」になる。「皮」は行き場をなくして、「脱輪して垂れる」。それはいったん「無意味」になるということだが、「宇宙論」と「素粒子論」が呼応するかぎり、あらゆる仮定(仮説、ここでは「輪郭」としての「リンゴの皮」)は常に反撃してくる。反証を要求する。それが理髪店の「カミソリ」。「ナイフ」は外部から「リンゴ」にあてられ、「皮」をむく。しかし、「カミソリ」はどうしたって「内部」からあてられなければならない。それが「呼応」というもののあり方である。
私はこれまで何度かたなかの「訳詩」、そのことばを読んできたが、「訳」は、たぶん、理髪店のカミソリのように、内部から詩に接近するものなのだろう。内部を、外国語の「うしろ」を動き回って、血管や神経の構造を解剖し、むき出しにする。それはけっして外国語の前へは出て行かない。あくまで、「うしろ」(内部)を日本語にしてみせるものである。
たなかのことばは、何かと呼応することが好きなのである。呼応しながら、他者のことばが「外部」を動くのに対して、たなかは「外部」へは行かずに、「うしろ」に控え、「うしろ」にも「宇宙」がある、「宇宙」と呼応する構造があるということを浮かび上がらせる。
たなかの作品が、私が仮定したように杉本との「往復詩」という形で書かれたものであるとすれば、たなかと杉本は互いにとてもいいパートナーだ。向き合うことで、ことばが互いに自在な動きを獲得していく。つまずくとしても、そのつまずきは新しい動きを切り開くためのつまずきである。
(この文章は、実は11日に書いたのだが、杉本、たなかとつづけて感想を書くと、結びつきがあまりにも強くなりすぎる気がして、小笠原の詩集の感想を間に挟んだ。しかし、間に小笠原の詩の感想という異質なものを挟んでみると、逆に、杉本-たなかの結びつきがより強烈に浮かび上がるような気もしてくる。不思議なものである。)
年03月10日の日記で取り上げた杉本徹「(頬よせる車窓をつかのま…)」とことばの印象がとても似ている。タイトルの書き方も同じである。二人で競作というか、交互に作品を書きあったのかもしれない。「往復詩」なのかもしれない。
杉本が
「かわく樹、かわく横顔、
そこまでの数年もまた、見知らぬ天体だった」
と書いたのに対し、たなかはどう答えるか。
無風のうしろで生乾きの建物は
雨中を走り抜けたランナーでのすばやい引き渡しを求める
「かわく」に対して「生乾き」、「天体」に対して「雨中」。「雨中」を「うちゅう」と読むと、それは「宇宙」=「天体」になる。意識的か、無意識にか、私にはわからないが、そこには不思議な呼応がある。
たなかの「無風のうしろで」の「うしろ」ということばに私は強い魅力を感じた。杉本は「照り返し」ということばをつかっていた。「光」ということばもつかっていた。杉本のことばが、何か、前進していくのに対して、たなかのことばは「うしろ」が象徴するように、前進はしない。つねに「背後」を耕す。前進してきても、「いま」、その「存在」のその位置までである。それから先へは進まない。
2連目の全行。
無風のうしろで生乾きの建物は
雨中を走り抜けたランナーでのすばやい引き渡しを求める
このネガでほつれかけたガーゼで
街路の仮死を仮縫いする《時間の火事》
地上波なのに海藻がつぎつぎに神経のようにゆれる
左手のナイフでしゃにむにむきはじめたリンゴの皮が
無風のうしろで早くも脱輪して垂れる
末端はアナコンダかそれとも剃り残されたひげか
生乾きの理髪店でカミソリがいきなり顎に接近する
「生乾きの理髪店でカミソリがいきなり顎に接近する」という行は、現実には、カミソリが省略されている「私」の外部から「私」の「顎」へ接近してくるのだが、なぜか私には「私」の内部から接近してくるように感じられる。現実の位置としては、カミソリを持つ人が「私」の「うしろ」にいて、「うしろ」にいる理髪師の手にあるカミソリが「私」の前方から「顎」へ接近してくるという動きが考えられるのだが、たなかのことばの「うしろ」には、なぜか「内部」という印象があり、そのために、私は一種のまぼろしのようにして、カミソリが独自に「私」の内部からひげを剃っていくように感じてしまうのである。
それに先立つ行に「神経」ということばがあるせいかもしれない。「肉体」の内部にあるもの、「肉体」の表面の「うしろ」に存在するもの。何か、「うしろ」という領域にあるものの方が、存在の「外部」そのものと呼応するような感じなのだ。
うまく言えないが、「宇宙論」が「素粒子論」と呼応するような感じ。「外部」が「宇宙論」で「うしろ(内部)」が「素粒子論」である。
「りんご」という存在は「皮」をむかれて「宇宙論」の輪郭を失い、「素粒子論」になる。「皮」は行き場をなくして、「脱輪して垂れる」。それはいったん「無意味」になるということだが、「宇宙論」と「素粒子論」が呼応するかぎり、あらゆる仮定(仮説、ここでは「輪郭」としての「リンゴの皮」)は常に反撃してくる。反証を要求する。それが理髪店の「カミソリ」。「ナイフ」は外部から「リンゴ」にあてられ、「皮」をむく。しかし、「カミソリ」はどうしたって「内部」からあてられなければならない。それが「呼応」というもののあり方である。
私はこれまで何度かたなかの「訳詩」、そのことばを読んできたが、「訳」は、たぶん、理髪店のカミソリのように、内部から詩に接近するものなのだろう。内部を、外国語の「うしろ」を動き回って、血管や神経の構造を解剖し、むき出しにする。それはけっして外国語の前へは出て行かない。あくまで、「うしろ」(内部)を日本語にしてみせるものである。
たなかのことばは、何かと呼応することが好きなのである。呼応しながら、他者のことばが「外部」を動くのに対して、たなかは「外部」へは行かずに、「うしろ」に控え、「うしろ」にも「宇宙」がある、「宇宙」と呼応する構造があるということを浮かび上がらせる。
たなかの作品が、私が仮定したように杉本との「往復詩」という形で書かれたものであるとすれば、たなかと杉本は互いにとてもいいパートナーだ。向き合うことで、ことばが互いに自在な動きを獲得していく。つまずくとしても、そのつまずきは新しい動きを切り開くためのつまずきである。
(この文章は、実は11日に書いたのだが、杉本、たなかとつづけて感想を書くと、結びつきがあまりにも強くなりすぎる気がして、小笠原の詩集の感想を間に挟んだ。しかし、間に小笠原の詩の感想という異質なものを挟んでみると、逆に、杉本-たなかの結びつきがより強烈に浮かび上がるような気もしてくる。不思議なものである。)