詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡辺十糸子「ゆずりは」

2008-03-14 08:26:19 | 詩(雑誌・同人誌)
 渡辺十糸子「ゆずりは」(「庭園 アンソロジー2008」2008年02月22日発行)
 「ゆずりは」(新しい葉が育ってから、古い葉が落ちる樹木)と男の厄落し(?)をしている女のことが重なりあう形で描かれている。
 その最終連が、どうしてもわからない。

ゆずりは。
なにものもゆずられず
なにをゆずるでもないわたしの
死児と胞衣で
ゆずりはの樹はそだつ。
ゆめのようにしあわせなこの村で。
いつまで、

 「いつまで、」がわからない。読点「、」で終わるのはどうしてだろう。句点「。」が書かれているだけに、とても不思議である。中途半端な気持ちにさせられる。私はことばを読むとき、どうしても「論理」で読む癖があるので、こうした中途半端に出会ったときは、なぜ? とどうしても思ってしまう。
 せめて「いつまでも、」と「も」があれば、「いつまでも、/ゆめのようにしあわせなこの村で。/ゆずりはの樹はそだつ。」と倒置法の文章として読むことができる。だが、「も」がない。そして、こうやって倒置法の文章に書き換えてみるとわかるのだが、もしこれが倒置法の文章の変形だとするならば、その倒置法は、実は二回おこなわれていることになる。「ゆめのようにしあわせなこの村で。/ゆずりはの樹はそだつ。」という倒置法に、もう一度「いつまで、」が付け加わる形で倒置法が繰り返される。この繰り返しは「円」を感じさせる。「循環」を感じさせる。
 たぶん、このことと「も」が省略された「いつまで、」は関係しているのだと思う。
 繰り返される倒置法によって「循環」が生まれる。だから「も」は省略されているのだ。意図的な「省略」がここには存在するのである。

 そして、この少し変わった「循環」こそが、渡辺の描きたいことなのだと思う。「いつまで、」という不自然な(?)「循環」のあぶりだしに渡辺の思想がひそんでいるのだと思う。

 「ゆずりは」の「循環」、葉の成長→落葉→新芽は普通の樹木とは違う。落葉は新芽が葉になるのを待ってからである。そこには、奇妙ないい方になるが「も」のようなものが強調されている。「も」はないけれど、「ゆずりは」は落葉樹なのに「いつまでも」葉が存在する。「も」の重複が、「も」の強調のようなものが、「ゆずりは」そのものにある。
 落葉樹は新芽→落葉→新芽という循環を「いつまでも」繰り返すが、ゆずりはは、その「→」の部分に古い葉と新しい葉が重なり「も」を隠している。隠すことで「も」を強調している。
 隠すことによる強調。--これが「いつまで、」ということばのなかにある思想であるかもしれない。

 世界には常に隠されたものがある。そして隠されたものによって「循環」が成り立っている。あるいは「循環」のなかに、隠されたものがあり、それこそが「いのち」である、という認識が(思想が)、たぶん、渡辺のどこかに存在する。「どこか」というのは、明確に指摘することのできない部分、肉体になってしまっている部分という意味である。

 「いつまで、」と呼応するように、とても不思議な魅力をたたえる部分がある。

そんなときおとこはからだをきよめ
夜、わたしの寝所にくる
災厄をわたしのはらに宿し
死児として棄てるために
おとこは一晩ねむらずにわたしを抱き
わたしのからだのおくそこの
とおい神の国に願いがとぎくまで
いっしんにわたしを磨くように
ていねいに執拗にたえまなくわたしを揺さぶる。

あんなきもちのいい夜は
それはもう、くらべるものがないほど
飢えをうったえた口に
熱く滴る命の意味をねじこまれるような夜で、

 「厄落し」の一種の「神話」。そのなかで繰り返される儀式。そして、そのなかで「神話」を裏切るような形で存在する「愉悦」。ここには不思議な「暴力」がある。「暴力」の美しさがある。そして、その「暴力」は、男が「厄落し」に女を利用するという「暴力」ではなく、そういう「暴力」を超越して、女が愉悦に酔うという「暴力」である。「いち」そのものの「暴力」である。そういうものが、「神話」を、そして「神話」が内包する「循環」をどこかで支えている。そういう「暴力」がないと「神話」は成立しない。成立することを、女が許さない。女はそういう「暴力」を隠すことで、そういうものがあることを強調し、「循環」を支えている。
 渡辺が書こうとしているものは、そうした「おんな」の「いのち」そのものかもしれない。

 ゆずりはは、新しい葉がでてきてから落ちるのではない。新しい葉を育ててから身を棄てるのである。木が命を育てている。--のではなく、その木が育てていると思い込んでいる葉、それ自身が木を利用して新しく生まれてくる葉を育てている。「循環」を「樹木」ではなく、「葉」からとらえる、「葉」が「隠しているもの」からとらえる。そういう視線の動きを感じる。

*

Fの残響
渡辺 十糸子
河出書房新社

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