詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

洞口英夫『闇のなかの黒い流れ』

2008-03-05 02:13:51 | 詩集
闇のなかの黒い流れ
洞口 英夫
思潮社、2007年07月31日発行

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 「邂逅」という作品がある。昭和四十一年四月二十九日という日付が入っている。その日付をみながら、あ、ことばは時代とともにずいぶんかわったな、と思った。現在、こういう詩を書く人がいるだろうか。
 「邂逅」の全文。

春の日 あぜ道につながれている牛が
ずうっと僕の方を見ていた
遠い昔 鉄格子の中から僕を見ていた
美しい白痴の少女の眼に似ていて
どこをみているのだろうと思われるような
まなこを 私は見ていた

それは いかにも牛が どこか以前で
人間であった時を思い出しているといったふうな--
牛に生まれたということが
そうさせられているのであろう

遠ざかってゆく 私を牛が
ずうっと見ている

 「うし」「あぜ道」という農村の風景のことを、私は問題にしているのではない。そうした風景がまだ日本にあるかどうかはわからないが、かつてはあったし、いまでも世界のどこかには存在するだろう。
 だが、

美しい白痴の少女の眼に似ていて

 この1行を、現代のだれが書くであろうか。
 「美しい」「白痴」少女」。この結びつきは、昭和四十一年には、ある意味を持ったかもしれない。私は、その当時でも、何らかの衝撃、つまりことばへの批評がそこにふくまれていると感じるひとは少なかっただろうと想像するが、現代では、なおのこと、そこにはことばへの批評は感じられない。非常に陳腐な紋切り型の意識しか感じない。いや、それだけでなく、そういう紋切り型を平気でつかうことに対するやりきれなさを感じてしまう。
 「美しい」は「白痴」を修飾しているようにも、「少女」を修飾しているようにも、眼」を修飾しているようにも見えるが、どちらにしろ、そういう組み合わせが、とても気持ちが悪い。「美しい」「白痴」「少女」「眼」という組み合わせがほんとうだとしても、それがそんな単純にストレートに、まるで水が上から下へ流れるように結びつき、それを「詩」として提出する姿勢に、とても気持ち悪さを感じる。
 昭和四十一年四月二十九日という日付があったにしろ、なんだか、いやあな気持ちになるのである。ことばに対する批評・批判が、その結びつきにふくまれているとは感じない。昭和四十一年であっても、そんなふうにことばとして定着させることに洞口が疑問を感じなかったのかどうか、それがわからないが、少なくともこの詩集は2007年に出版されている。その時点で、きちんと自分の書いたことばに批評・批判を加えるべきだろう。昭和四十一年のものだから、これでいいとは、私はいう気持ちになれない。

 古い時代の詩を詩集にするときはただ年代を明示すればいいというものではないだろう。時代ととともに、ことばも発想もかわる。その変化に対応できる視点を洞口は昭和四十一年には欠いていた。そして、それう修正することもなく、いま、ここに、こうして提出している。
 こういう姿勢は間違っていると思う。

コメント
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