詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

財部鳥子「月島」

2008-03-26 00:53:30 | 詩(雑誌・同人誌)
 財部鳥子「月島」(「鶺鴒通信」α、2008年03月31日発行)
 1連目が充実している。

はじめも終わりもない世界で
向日葵の種子がいちめんの貌をさらして
こぼれる涙のようになにかの力で
空き地に実を散らしている

 ヒマワリは花が散ったあとだろう。種子だけが残っている。そして、いまはその種子が地面に散っている。こぼれている、と言いなおした方がいいかもしれない、と書いてわかるのだが、「散らしている」は前の行の「こぼれる涙」の「こぼれる」と呼応している。そうすると、「涙」は「実」と呼応していることになる。「涙」と「種子」が呼応するとき、ヒマワリと人間も呼応する。財部はヒマワリに人間を見、ヒマワリに人間を見ることで、実は財部自身を見ているのかもしれない。この重なりあいが、1連のことばを複雑にし、充実させる。
 「顔」ではなく「貌」というのも、この場合、充実感をささえる。「顔」のように単純(?)なことばはここでは不向きである。ことばの重なり合いに耐えうる力を持った強い文字が必要なのだ。
 「いちめん」というひらがなが「貌」をくっきり立ち上がらせる効果も上げている。

 このあと、詩は、「月島」を描写しながら動いて行くのだけれど、その動きが1連目のように何度も行き来しない。ストレートに進む。それが残念。進みながらもどり、もどりながら進むことで、「月島」ではなく、その場にいる「私」を耕してほしかったなあ、と思う。
 1連目がおもしろいだけに、そんな想いが強くした。



 「本郷給水所公苑」も、ことばがしっかり動いている。描写がていねいである。

鳩の群れの規律のない糞と過食にも
苔むした江戸期の木樋にも
盛りを過ぎかけたものうい薔薇にも
睦みあう鯉のたてる泥の煙幕にも
ここに静寂が恩寵のようにあるのも
わたしにはまったく何の用もないものだった

 ことばが対象を(存在を)探して、探し当てたものを、逃すまいとうごめく。そういう感じがとてもおもしろい。もっと明確な(?)つかみ方はないものか、と模索している感じがいい。ことばが整わずに、まだなにかを探したまま(存在を、ではなく、ことばの形を探したまま)、うごめいている。こういう未整理な状態(というと失礼になるだろうか)が、私はなぜか好きである。一種の肉体を感じるからである。

 ただし、2連目の、

わたしに内面があるとすれば
それこそが内面であるのだろう

というようなことばの動きは、私には、気持ちよく感じられない。こんなふうに「現代詩」そのものという感じでことばが整理されてしまうと、「あ、やっぱり現代詩の方へ行ってしまうのか」とがっかりする。
 

コメント
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