詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

桑原文次郎「若さ」

2008-03-07 11:27:53 | 詩(雑誌・同人誌)
 桑原文次郎「若さ」(「光年」133 、2008年02月15日発行)
 「四行詩三編」というタイトルでくくられたなかの、冒頭の作品。「若さ」。

私にはアンドレ=ジイドの趾(あし)の裏まで見えるような気がすると言って
 友人を驚かせたとき
私に 何がわかっていただろうか
恐らく 何もわかっていなかった
それでも そのときの若さが感じていたものは確かにあった

 余分なことが書かれていない。そういう美しさがある。「気がする」「わかっていた」「わかっていなかった」「感じていた」。この四つのことばは微妙に動く。
 「気がする」はもちろん「わかる」ことではない。明快な「理解」ではない。「頭脳」で判断して「わかる」と言っているわけではない。あくまで「気」なのである。この「気」は肉体と深くからんでいる。肉体のなかに「気」がある。「頭脳」のなかに「気」があるのではない。
 「気」の前の「見える」が「肉体」である。「見える」はここに書かれている「見える」は「肉眼」ではない。「肉眼」ではないけれど「見える」ということばをつかう。そのとき、ことばは「頭脳」ではなく「肉体」をくぐり抜ける。「肉体」をとおる。そして、その「肉体」をとおるということが「気」を引き出すのである。1行目の美しさは、この「肉体」をくぐりぬけることばの動きにある。とても自然な「見える」から「気」への移行がある。
 また桑原の「肉体」はこのとき、「アンドレ=ジイドの趾の裏」とも交感している。もちろんそんなものは「肉眼」ではみえない。しかし「気」にとっての「肉眼」には、それを見ることが可能なのである。これは「頭脳」の世界ではない。
 そうした「肉体」「気」「気としての肉体」と「見る」という動詞の関係を書いておいて、そこから2行目で、距離を置く。離れる。そのとき「頭脳」の世界があらわれる。「頭脳」が過去をなつかしい「肉体」としてよみがえらせる。2行目、3行目と、時間をかけてゆっくり「肉体」(気としての視力)について思いめぐらす。「わかっていただろうか」「わかっていなかった」の2行の反復する感覚が「時間」を明確に浮かび上がらせる。反復することで動詞は「時間」を内包する。
 その「時間」を4行目で「若さ」と定義し直し、桑原は「肉体」を見つめなおす。その「肉体」はいまはない。その「肉体」へのどうしようもないなつかしさ、とりかえしのつかないなつかしさが「感じていたものは確かにあった」ということばのなかで、そっと自分の位置を確かめている。
 「気」から「感じ」への移行。
 桑原はさらっと書いているが「気」と「感じ」は「強さ」が違う。「気」は「感じ」よりはるかに強い。充実している。「気」は肉体を超越し、あふれていく。「見える」というような越権的(?)な動きをする。「気」に「目」はない。しかし、「気」は「目」を持たないけれど「見る」。見てしまうのだ。そこにないものを。そして、どこにもないものを。「肉体」が欲するものを。
 若い時代、桑原の「肉体」は「アンドレ=ジイドの趾の裏」という、おそらくだれも見たことのないものとまで交感することができた。「気」は、そんなふうに超越的なもの、特権的なものである。
 時間がたち、「気」が薄れる。そのとき「感じ」が残る。

 とても美しい詩だ。


コメント
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