詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

柏木麻里『蜜の根のひびくかぎりに』

2008-05-01 08:38:45 | 詩集
 柏木麻里『蜜の根のひびくかぎりに』(思潮社、2008年04月30日発行)
 インターネットでは紹介しにくい作品がある。柏木の今回の詩集は特に紹介しにくい。詩集には「余白」がたくさんあり、その「余白」がことばを浮かび上がらせているからである。「余白」を行き来しながら読者はことばを読む。「余白」にことばと拮抗する「意味」がある。その「余白」をインターネットでは表現できないからである。(もちろんページをPDF化してアップすれば「余白」を忠実に再現できるが、この「日記」ではそういう手数をかける紹介をしないことにしている。)インターネットでは紹介しにくい作品なのだけれど、それでも少し書いておきたい。紹介したい。(本文は縦書き)

    ゆらされて


密が           と いう
     わたくし

 この作品を読むとき、私の意識は自然に「ゆらされて/密が わたくし と いう」と読んでしまう。しかし、この作品は文字の空きを無視して引用し直せば

ゆらされて
密が と いう
わたくし

であり、そこには不思議な倒置法がある。「不思議な」というのは、普通の倒置法ならば「揺らされて/密がいう/わたくし と」になるからである。ここでは柏木は倒置法を無視している。あるいは、倒置法を超えようとしている、といった方が正確かもしれない。倒置法は、読者に一種の緊張を強いる。そして、その緊張を利用してことばを印象深いものにするのだが、この緊張を柏木はもう一歩進めようとしている。

 これは倒置法というよりは、むしろ映画でいう「フラッシュバック」のようなものである。物語(時間の進行)の途中、その物語の「いま」を突き破るようにして挿入される過去の一瞬の記憶。その鮮烈な輝き。過去が現在に噴出してきて、それまで見えていなかった「物語」(時間の構造)がくっきり浮かび上がり、その明瞭な時間を利用して、過去が未来へ突き進む。ショートカット、ということもできるかもしれない。ショートの火花。そのきらめき。目を一瞬、やきつぶす。視覚の一瞬の死と、その後の突然の再生。その断絶と継続のなかに、柏木の詩がある。

 柏木は造形作家と美術館でインスタレーションを試みるなど、もともと空間志向の強い詩人なのだと思うけれど、この詩集で柏木がしていることは、時間の「空間化」ということかもしれない。
 時間というものを私たちは図式化するとき直線を利用する。過去-現在-未来。一直線である。ときどき、その一直線のなかに、思いもかけなかったものが突然立ち上がってきて時間の進行のリズムを破るけれど、それでもそれは一直線である。リズムの変化にすぎない。
 この一直線の時間の流れを柏木は、空間化する。詩集のなかならば、それを平面化する。

    ゆらされて


密が           と いう
     わたくし

 「わたくし」は「密が/わたくし/と いう」という縦の一直線の時間の流れを横におしひろげる。「わたくし」は「密が/と いう」という時間とは別な時間からふいにあらわれてきて、平行して動く。時間には複数の流れがあり、それがあるとき、平行して世界を作り上げる。それは「リズム」というよりは「和音」である。響きあいである。
 「フラッシュバック」は時間を破る。いまある「時間」(主の時間)を破って、過去の「時間」を突然「主役」にすり替える。リズムの交代である。
 柏木がやっていることは、これとはまったく違う。「主役」の持っている時間そのものを豊かにするようにして協力するのである。ひとつでは奏でられない音を、二つを重ね合わせることで出現させる。そこにあるのは、たしかに分離できる二つの存在である。二つの存在であるが、それを分離した瞬間「和音」の距離が消える。「空間」が消える。「和音」とは、二つの音が向き合ったときの「距離」のことなのだ。
 柏木は、時間、ことばのなかの「距離」をしっかりみつめ、それを再現する方法を試みている。ページにあふれる「余白」--それはことばとことばの、時間の「距離」をあらわしている。私たちの意識は、時間をときには「空間化」しながら動いている。動くことができる。柏木は、そうつげている。

 柏木のとらえる(再現する)時間の「余白」はとても繊細である。この繊細さは、繰り返しになるが、私の「日記」では再現ができない。ぜひ、詩集で味わってください。





柏木には、次の詩集もあります。

音楽、日の
柏木 麻里
思潮社

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