詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

時里二郎「森屋敷」

2008-05-02 22:32:59 | 詩(雑誌・同人誌)
 時里二郎「森屋敷」(「たまや」04、2008年05月12日発行)
 時里の詩は文体にある。散文形式で時里は詩を書くが、散文形式でありながら、そのことばは先行することばを追い越しながらも、ときどき立ち止まる。時間を、追い越すと見せかけて立ち止まる。その瞬間に、詩が生まれてくる。
 「図書室」という断章。その2段落目。

 養蚕のジオラマや展示標本のある同じ館内にありながら、そこはいつもいい匂いがした。防腐剤や薬品の匂いとは無縁で、殊更に鼻を利かせても、そこに収められた相当な量の古い蔵書の黴びた匂いすらも届いてこない。そこには何か特別な嗅覚の層を呼び覚ますものが潜んでいるように思われた。何かの気配、それも生き物の立てる気配ではなく、空間そのものが意識や情感を読み取って反応する細胞組織であるかのような気配。その細胞の活動がうながす匂いとでも言えばいいだろうか。それがぼくを誘う。

 「そこには」「そこに」「そこには」「それも」「その」「それが」。指示代名詞を含むそれらのことば。指示代名詞は「先行する」何かを指し示す。その何かへ向けてことばは進み、いまある存在を超えようとする。追い越そうとする。いま、その存在をとらえている意識を追い越し、新しく世界をとらえようとする。--時里の文体は、そういう散文の鉄則をきちんと踏まえている。
 そして、十分に、散文の鉄則を踏まえるからこそ、突然の停止、先へ進まないことが効果的なのである。それは存在を乗り越えるのではなく、内部から破壊する。

何かの気配、それも生き物の立てる気配ではなく、空間そのものが意識や情感を読み取って反応する細胞組織であるかのような気配。

 「動詞」がここでは存在しない。「動詞」が働き場を失って、「体言」が放り出される。存在が破壊され、その細部が時空間に飛び散る。そして、輝く。そのばらばらの、瞬間的な飛散。それを前にして、読者のなかの意識、感覚の「動詞」が動く。そういう瞬間を、時里はつくりだす。「気配」を読者は「感じる」。そこに書かれていな「動詞」が読者のなかで動き、その瞬間に飛散した世界が結晶になる。
 この瞬間的な運動のあと、時里の文体は、突然かわる。

その細胞の活動がうながす匂いとでも言えばいいだろうか。それがぼくを誘う。

 短くなる。呼吸が短くなる。
 息の長い文体、長い息のなかで、うねるようにして細部の密度を積み重ねる文体が、一気に破裂した詩の影響で、突然短くなる。その短さを支えるために、それまで存在しなかった「主語」が登場する。「ぼく」が登場する。
 短くすることで時里は無意識に呼吸をととのえるのである。「ぼく」という主語を明確にすることで、ことばを肉体に沿わせるのである。ただし、いったん、存在の破壊、破裂、飛散したあとでは、ことばは、どんなに肉体にそわせようとしてもずれていく。呼吸をととのえればととのえるほど、そのずれ--ゆらぎ、といってもいいが、その追いかけるものは、変質する。変化する。そして、ことばでしかとらえられないものになってくる。「ぼく」が見る世界は次のように書かれる。

 ぼくばかりではない。この図書室にやってくる人たちは、本を読んだり、資料を調べに来るというのは口実で、何かしら、例えば、自分の病の療養のために、この図書室にやってきて、その匂いを鼻孔にゆっくりと吸い込んでいるのではないか。そんな空想に耽りながら、ちらと前の席の若い男の後ろ姿に目をやると、男は居眠りをしているのか、わずかに身体を椅子からずらして頭を傾げている。大きく切り取られた窓からそそがれるたっぷりとした陽光にもそのいい匂いが沁みて、まるで若い男の不自然な姿勢が、その匂いを嗅ぐために工夫されたポーズにすら見えてくるのだった。

 「見えてくるのだった。」何気ないことばのようであるが、ここに時里の「思想」がある。「見えて」「くる」。「見える」のではなく、見えて「くる」。
 「その」という指示代名詞を含むことばで、常に存在を定着させながら、一方で存在を破壊し、そこからはじまる変化、生成(……くる)という世界を描く。時里の書きたいのは「くる」という変化なのである。
 変化のなかに、詩がある。変化こそが詩である。変化とは、越境であるからだ。

コメント
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