詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

文月悠光「黒髪」

2008-05-29 10:41:50 | 詩(雑誌・同人誌)
 文月悠光「黒髪」(「現代詩手帖」2008年06月号)
 1篇の詩のなかで、ことばの「形式」がかわる。改行で書かれていたことばが、改行をやめる。さらには、改行をやめたことばの1行の長さがかわる。そしてまた改行にもどる。そんなふうにして文月悠光は「黒髪」という作品を書いている。

青いバスのなかで
黄色い声たちが高くのぼり、
天井にぶつかっては乱舞する。
私の耳には少し遅れて届いてくるので
その合間をはかり、すばやく耳をそばだてる。
息を、殺す、私。
けして聞き逃さないように。
バスの窓に映った“黒髪”に手ぐしを入れると、私の手
はあっけなく毛先まで行きつき、誰かの肩をなでる。指
先に頭皮のにおいが残り、指紋が身をよじってうずを巻
く。私は困惑する。とらわれる、生身の髪をとかした確
かな感覚。おそるおそる窓ガラスに鼻を寄せ、映る気配
を嗅ぎ当てる。生あたたかな息づかいが迫り、“私”を
白く曇らせた。

(絡み合うさだめだろうか、互いに自らの汚れを示し合い、あわよくば隣人になすりつけ
る。やがて汚れが繊維を舐め尽くし、そこから滲み出てくるのは、うっとりとしした臭気。
モップの毛束を、作業服の女は手に取った。緑色のゴム手袋がなまめかしく光る。

 この詩を読みながら私が感じたのは、しかし、リズムの変化ではない。改行のことばが散文形式にかわる。その散文が、散文でありながら、行の長さをかえる。一瞬、その詩の形を見たとき、私は、視覚のなかの「耳」がリズムを探しているのに気がついた。けれども、そこには「耳」に響いてくるリズムの変化はなかった。
 文月は徹底的に「視覚」の詩人である。「聴覚」は「視覚」のあとに、思い出したようについてくるだけなのかもしれない。
 「青いバス」「黄色い声」「緑色のゴム手袋」。青+黄=緑。そういう変化がこの作品のなかにある。それは文月が実際に見たものであるかどうかはわからない。「黄色い声」というのはだいたい「視覚」ではとらえられないものである。「視覚」を借りているだけのことである。しかし、たぶん文月にとっては、この「黄色い声」は「視覚」を借りた聴覚のためのことばではなく、あくまで「視覚」が先にあり、そのあとに「聴覚」がやってきているのである。
 「天井にぶつかっては乱舞する」声も、まず「乱舞」が「見える」のである。声が聞こえる前に、声が「見える」。そして、そのあとに「聴覚」が目覚める。

私の耳にはすこし遅れて届いてくるので

 これは「わざと」書かれたことば、技巧のことばではない。文月は、そうではなくて、逆に「正直に」書いているのだ。
 この「正直さ」に私はかなり驚いてしまった。
 文月は文月の肉体のなかにある感覚を、そのずれをしっかりと認識し、それをことばに定着させようとしているのである。
 文月の「視覚」と「聴覚」にはずれがある。--文学というのは、たいていの場合(私が文学と感じることばの場合のことであるが)、そのことばのなかで感覚の融合がある。感覚が融合して、それまでの感覚ではとらえきれなかったものを一瞬にして把握する。
 いまでは常套句になってしまっているが、「黄色い声」には「視覚」と「聴覚」が融合している。そういう表現が「文学」である。
 しかし、文月は、そういう「融合」を、むしろ分離する。とけあわせずに、分離させ、その隙間、ずののようなもののなかへ入ってゆく。そこにはたとえば触覚だとか嗅覚もからんではくるのだが、それは「方便」であり、あくまでも「視覚」で感覚が融合する世界へ分け入ってゆく。
 そうしたことを書いているのが「バスの窓に映った……」以後の行である。
 「黒髪」は「白い」(息)、息によって「白く」曇ったバスの窓のなかで、書かれてはいないけれど「灰色」になっている。「灰色」の世界を、文月は、「撫でる」「嗅ぎ当てる」というような感覚に分類する。しかし、その分類を基本で支えているのは「視覚」である。

 「色」はふれあうことで、融合し、別の「色」にかわる。そのことを文月は「(絡み合う定めだろうか、」からはじまる部分で書いている。
 「黒髪」「白く曇る(窓)」の部分で書かれなかった「灰色」が「灰色」と書かれないまま、「モップ」のなかでうごめく。

互いに自らの汚れを示し合い、あわよくば隣人になすりつける。やがて汚れが繊維を舐め尽くし、そこから滲み出てくるのは、うっとりとしした臭気。

 しかし、ここでも「視覚」が基本なのだ。「視覚」が世界を分析し、統合するのである。「汚れを示し合」うのを文月は「見る」。見ることがあって、はじめてことばは視覚を離れることができる。視覚から出発しないことには、世界のなかへは入ってゆけないのだ。
 「隣人」というのはモップの房同士のことである。モップの房は、普通は「ひとかたまり」のものとして認識される。一本一本個別には認識されない。しかし、文月は認識してしまう。かたまり(群)ではなく、一本一本。それが「見える」からこそ「隣人」ということばが登場する。そして「視覚」でそんなふうにモップを分析したあと、「なすりつける」「舐め尽くす」というような触覚があらわれてくる。そして、「臭気」という嗅覚も追いかけてくる。
 このことばの動き、ことばの「正直さ」はおもしろいなあ、と思う。
 
 なぜ文月が、行かえ、1行が短い散文形式、長い散文形式、行かえとスタイルの混在した作品を書くのか、その「根本」は私にはまだわからないけれど、そこには「視覚」が潜んでいる。「視覚」を優先させて世界へ接近していく「思想」が潜んでいる。
 そのことを強く感じた。



現代詩手帖 2008年 06月号 [雑誌]

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コメント (1)
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