詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

阿部日奈子「今様のレッスン」

2008-05-23 00:55:01 | 詩(雑誌・同人誌)
 阿部日奈子「今様のレッスン」(「ユルトラ・バルズ」15、2008年05月15日発行)
 阿部日奈子のことばの魅力は、叩いても壊れない、ということだと思う。あ、このことば、触れただけで砕け散りそう、という繊細なことばの対極にある。頑丈である。その頑丈さは、たぶん豊富な読書量にある。広範な読書量にある。
 「今様のレッスン」の書き出しの2連。

恋幸彦の間夫日記
秘密の手帖が盗まれて
令閨令嬢大弱り
懸賞金で取り戻せ

きょうの授業はイマヨウの作り方でした
みんな指を折り折り吟じていたけれど
そろいもそろって不道徳なので
先生は渋い顔でした

  1行目の「恋幸彦の間夫日記」が、もう「文学」以外の何者でもない。「文学」を読んでいないと、こういうことばは出てこない。日常では、こんなことばは誰もいわない。そして、それを強靱にさせているのが「文学」でありながら、「俗」であることだ。「聖」ではなく、「俗」。すでに「文学」として存在することばのなかに「俗」を紛れ込ませる。「恋」だの「間夫」だの。もちろん「恋」も「間夫」も「文学」には出てくるが、それは「恋」とか「間夫」ということばを排除して書かれている。「恋」「間夫」ということばをつかわずに「恋」「間夫」を描くのが「文学」である。
 「恋」「間夫」と書いてないけれど、ことばからそれを読み取るのが「俗人」の読書である。阿部は、わざと「俗人」になって、ことばを鍛えている。強靱にしている。
 「純粋」なものは美しいけれど、衝撃に弱い。混じり合っているものは、「純粋」ではないかもしれないが、混じり合うことで互いを補いあう。強くなる。

 2連目の「そろいもそろって不道徳なので」の「不道徳」ということばの使い方は絶妙である。いや、「そろいもそろって」という「口語」の使い方の方がもっと絶妙であるかもしれない。「文学」が排除した常套句をわざと使い、「文学」ではないことばを装いながら、その偽装を「文学」にする。

 阿部の詩は、「偽装の文学」なのである。

 「偽装の文学」といっても、それが「偽物」という意味ではない。「偽装」には「技巧」がいる。「技巧」のない「偽装」は単なる嘘である。「偽装」には「私」ではないものへの徹底した考察がなければならない。「他者」への徹底した観察、分析がないと、偽装は不完全である。ばれてしまう。どこまで完全に「偽装」できるか、どこまで「私」を排除しながら「他人」を演技できるか。
 偽装・演技するときのエネルギー、その熱意。それが阿部に「文学」を分析させ、また「俗」を分析させ、それを結合させる。「偽装」でしかありえない迷宮は、現実を引き剥がす。現実の奥に潜んでいるものをあばきだす。阿部が明らかになるのではない。阿部のことばに触れた読者の現実があばかれる。

ラヴィアンローズいろあせて
アヴェクモンマリうざったく
ドールハウスは窮屈と
浮かれプティット出奔す

先生は言います
きみたちはまだ性欲が物欲を上回っているからなぁ
大人になると色恋沙汰は面倒で
鼻息も荒く銀行に駆け込むようになるんだよ

 あ、フランス語。
 読んだ瞬間、そんな思いが頭をよぎらないだろうか。そして、そのフランス語に、「俗」まみれの「いろあせて」「うざったく」というようなことばが結びつく。そのときの、何とも言えない「超俗」の感じ。「超俗」といっても、「俗」が「俗」を超えるのではなく、「俗」のなかに落ち込んでいく。もうこれ以上落ちる先がないくらいに落ち込んで、そこで平然としている。
 壊れずに、平然としている。
 そこであばかれているのは、たとえば、「あ、フランス語」とふと頭をよぎった私の現実なのである。こういう現実のあばかれ方は、すごい。あばかれてしまって、もうとりつくろいようがない。
 もし、このあばかれた現実から逃げる(?)道があるとすれば、4連目、先生の口調をまねて、先生のいったことを口移しに言ってみるしかない。そういうせりふをいつかいうために、「きみたちはまだ……」の3行をまるごと覚え込むしかない。
 そして、阿部のことばをまるごと覚え込み、それをいつか使ってやろう--そう思ったとき、私たちは、もう完全に阿部に取り込まれている。阿部のことばのなかでだけ生きている。もう、阿部のことばを叩く壊す方法はなくなっているのだ。

 阿部のことば、「きみたちはまだ……」を使ってみたいというのは、阿部のことばで「私」を「偽装」することだ。阿部の「偽装」に取り込まれて、私もまた「偽装」するしかない--そんなふうに、二重に、三重に、あるいはもっともっと重なり合った世界へと、私は入って行き、そこに何かあるとすれば、その「重なり合い」というものしかないということを知らされる。
 ことばは重なり合い、「偽装」は重なり合い、その重なりあいの隙間に、現実がこぼれてゆくのだ。重なりあいのなかで、現実は、批判され続けるのである。「文学」の、そして「ことば」の現実が。

 ことばがことばを批評し、文学が文学を批評する。批判する。俗が俗を批評し、批判する。そこから現実が、ことばが文学に寄り掛かっているという現実があばかれる。






海曜日の女たち
阿部 日奈子
書肆山田

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