監督 マイク・ニコルズ 出演 トム・ハンクス、ジュリア・ロバーツ、フィリップ・シーモア・ホフマン
ひとりでソ連のアフガン侵攻を防いだアメリカの下院議員の実話--という触れ込みである。予告編はコメディータッチであった。アフガン侵攻と、その攻防をどんなふうにコメディーにするのか、マイク・ニコルズの手腕を見たくて、とても期待した。トム・ハンクス、フィリップ・シーモア・ホフマンにも期待した。
だが、期待外れであった。
アメリカの国際戦略がいかにいいかげんであるか、という部分はコメディーにまだなりうる。実際、チャーリー・ウィルソンが他の国会議員を抱き込んでいく様子は、笑いの中に現実のうさんくささをぷんぷんさせて、なかなかおもしろい。
だが、ソ連のアフガン侵攻が引き起こした問題はコメディーではあり得ない。それを解決するためにチャーリー・ウィルソンがとった方法はコメディーではあり得ない。
アメリカがアフガンへ大量の武器を提供した。周囲の国も同じである。この映画には武器の提供しか描かれていないが、武器が提供されるとき、武器の製造が必要である。影で軍需産業がうるおっている。そういうことも、この映画では描かれていない。そして、そのてとき提供した武器が、テロを産む温床になった。これが現実の現在の世界の姿なのに、そのことがアフガンに学校を造らなかった、というエピソードに置き換えられている。チャーリー・ウィルソンはソ連を撤退させたあとのアフガンのことも考えていたが、他の議員が考えなかったために、うまくいかなかった、という調子に歪められている。チャーリー・ウィルソンのアフガンに学校をという提案が受け入れられていれば、世界はちがっていた、という具合に歴史が歪められている。
この映画では、チャーリー・ウィルソンはあくまで善意のひとである、と強調されている。アフガン問題に真剣になったのは難民キャンプを視察し、難民の悲惨な生活を目の当たりにしたことがきっかけである。弱者に対するやさしい視点をチャーリー・ウィルソンは持っていた。映画の最後に描かれる学校建設の提案がそのことを雄弁に語っている--とこの映画は締めくくるのだけれど。
違うだろう、そうじゃないだろう、と叫びたくなるような、なんとも「胸くその悪い」映画である。
トム・ハンクスは、この「善意」の国会議員を、純真なこころを強調するように演技している。しかし、「善意」の人間であるはずのない人間の「善意」を強調しても、その人が「善意」のひとにかわるわけではない。最後にトム・ハンクスは非常に苦い表情を見せる。それはチャーリー・ウィルソンの苦渋をあらわしているのだけれど、そんな「表情」ですませられる問題ではないだろう。これはトム・ハンクスの映画人生のなかでの「汚点」というべき作品である。
私はトム・ハンクスのファンではないのだけれど、思わず、あ、失敗したな、トム・ハンクスは失敗してしまったな、と思ってしまった。そういう意味では、最後の表情は、チャーリー・ウィルソンの顔ではなく、トム・ハンクス自身の顔になってしまっている。
*
マイク・ニコルズは「卒業」で自分が何者であるかわからない青年をていねいに描いた。(前半がとてもすばらしい。)「善意」に考えれば、この映画でマイク・ニコルズは自分が何者であるかわからない国会議員の内面の動きを描き出そうとしたのかもしれない。確かにそう思って思い返せばそれなりに見ることのできる映画である。
しかし、私は、どうしても 9・11を思い出してしまう。テロを思い出してしまう。
アメリカの国際戦略は武力による解決ではなく、学校を建設するなどの地道な支援に変更すべきである--という主張がこの映画にはある、と言おうとすれば言えるけれど、これはあまりにも唐突である。唐突である、というのは、ようするに付け焼い刃、ごまかしである。こんなごまかしで、映画を締めくくってほしくない。
この映画は見てはいけません。少し早いけれど2008年のワースト1はこの映画です。「醜悪」ということばは、このような映画のためにある。
*
マイク・ニコルズを見るなら、やっぱり、これ。
ひとりでソ連のアフガン侵攻を防いだアメリカの下院議員の実話--という触れ込みである。予告編はコメディータッチであった。アフガン侵攻と、その攻防をどんなふうにコメディーにするのか、マイク・ニコルズの手腕を見たくて、とても期待した。トム・ハンクス、フィリップ・シーモア・ホフマンにも期待した。
だが、期待外れであった。
アメリカの国際戦略がいかにいいかげんであるか、という部分はコメディーにまだなりうる。実際、チャーリー・ウィルソンが他の国会議員を抱き込んでいく様子は、笑いの中に現実のうさんくささをぷんぷんさせて、なかなかおもしろい。
だが、ソ連のアフガン侵攻が引き起こした問題はコメディーではあり得ない。それを解決するためにチャーリー・ウィルソンがとった方法はコメディーではあり得ない。
アメリカがアフガンへ大量の武器を提供した。周囲の国も同じである。この映画には武器の提供しか描かれていないが、武器が提供されるとき、武器の製造が必要である。影で軍需産業がうるおっている。そういうことも、この映画では描かれていない。そして、そのてとき提供した武器が、テロを産む温床になった。これが現実の現在の世界の姿なのに、そのことがアフガンに学校を造らなかった、というエピソードに置き換えられている。チャーリー・ウィルソンはソ連を撤退させたあとのアフガンのことも考えていたが、他の議員が考えなかったために、うまくいかなかった、という調子に歪められている。チャーリー・ウィルソンのアフガンに学校をという提案が受け入れられていれば、世界はちがっていた、という具合に歴史が歪められている。
この映画では、チャーリー・ウィルソンはあくまで善意のひとである、と強調されている。アフガン問題に真剣になったのは難民キャンプを視察し、難民の悲惨な生活を目の当たりにしたことがきっかけである。弱者に対するやさしい視点をチャーリー・ウィルソンは持っていた。映画の最後に描かれる学校建設の提案がそのことを雄弁に語っている--とこの映画は締めくくるのだけれど。
違うだろう、そうじゃないだろう、と叫びたくなるような、なんとも「胸くその悪い」映画である。
トム・ハンクスは、この「善意」の国会議員を、純真なこころを強調するように演技している。しかし、「善意」の人間であるはずのない人間の「善意」を強調しても、その人が「善意」のひとにかわるわけではない。最後にトム・ハンクスは非常に苦い表情を見せる。それはチャーリー・ウィルソンの苦渋をあらわしているのだけれど、そんな「表情」ですませられる問題ではないだろう。これはトム・ハンクスの映画人生のなかでの「汚点」というべき作品である。
私はトム・ハンクスのファンではないのだけれど、思わず、あ、失敗したな、トム・ハンクスは失敗してしまったな、と思ってしまった。そういう意味では、最後の表情は、チャーリー・ウィルソンの顔ではなく、トム・ハンクス自身の顔になってしまっている。
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マイク・ニコルズは「卒業」で自分が何者であるかわからない青年をていねいに描いた。(前半がとてもすばらしい。)「善意」に考えれば、この映画でマイク・ニコルズは自分が何者であるかわからない国会議員の内面の動きを描き出そうとしたのかもしれない。確かにそう思って思い返せばそれなりに見ることのできる映画である。
しかし、私は、どうしても 9・11を思い出してしまう。テロを思い出してしまう。
アメリカの国際戦略は武力による解決ではなく、学校を建設するなどの地道な支援に変更すべきである--という主張がこの映画にはある、と言おうとすれば言えるけれど、これはあまりにも唐突である。唐突である、というのは、ようするに付け焼い刃、ごまかしである。こんなごまかしで、映画を締めくくってほしくない。
この映画は見てはいけません。少し早いけれど2008年のワースト1はこの映画です。「醜悪」ということばは、このような映画のためにある。
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マイク・ニコルズを見るなら、やっぱり、これ。
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