柴田千晶『セラフィタ氏』(思潮社、2008年02月28日発行)
柴田の2000年発行の詩集『空室』を読んだ読者からメールが届く。そのメールに誘われるようにことばが動いていく。現実ではなく、ことばが詩を動かしていく詩である。もちろんことばも現実である。ことばだけが現実になりかわっていく。すべては消去され、ことばが呼び込んだことばだけが増幅し、ことば、ことば、ことば、とことばがさらにことばを探しはじめる。
詩の途中に短歌(?)が挿入される。それは増幅することばに耐えかねたことばの悲鳴のように聞こえる。美しい悲鳴というものもあるかもしれないが、ここでは、増幅することばで窒息しそうになることばが、やっと息をしているという感じである。どういうことばが悲鳴をあげるかといえば、論理、精神の抒情が悲鳴を上げているのである。抒情といっても、そこにはほんとうは抒情はない。五・七・五・七・七というリズムの、リズム論理のもっている抒情である。五・七・五・七・七というリズムなら、抒情的な悲鳴が生き延びられるはずという「論理」の夢である。願望である。願望が、悲鳴になって残っている。
なぜ、そんなふうにして、ことばの悲鳴を残したいのか。
たぶん、柴田が受け取ったというメールと関係する。メールに書かれていることばと関係する。
メールを書いた「セラフィタ氏」は「散文」をどう定義しているかわからない。しかし、柴田は「散文」について柴田は次のように定義している。
なぜ散文は果てしないか。それは散文というものは、あることばを出発点にして、どこへゆくかわからないまま変化して行くのもだからである。散文の目的はただ出発点を超えることだけである。出発点を超え、中間点を超え、到達点を超え、その向こうへ行ってしまう。エクスタシー。到達し、その到達を超えて、自己の外へ出てしまう。それはたしかに散文の仕事であり、それはセックスと重なり合う。
柴田は、いわば読者のことばを出発点として、読者の定義そのものを超越しようとしている。そういう試みはたしかに「散文的」である。散文でしかできない。
ただし、実際に柴田のセックスがというか、柴田のことばが、自己の外へ出ていってしまっているかというと、私には、疑問に思える。自己を超越し、自己の外へ出ていこうという意図は感じるけれど、どうも自分の「枠」というものを求めて、内部をさまよっている感じがする。
挿入される短歌が、そのさまよいである。感情を、抒情をひきつれて、自己の外へでたいのだ。感情を守りたいのだ。書くことでたたき壊す感情というものもあるだろうけれど、柴田はここでは柴田の感情をたたき壊してはいない。たたき壊して、その外へと出ようとはしていない。少なくとも私には、柴田の短歌は、そんなふうに読める。そんなふうに響いてくる。
詩集のなかでは、この短歌が私は一番好きだ。「薄明」と「ハーゲンダッツ」が頭韻を踏んで美しい。抒情はここでは「純文学」と呼ばれている。その関係も美しい。生き残っている感情の小ささが美しい。
しかし、これでは散文的セックスはとうてい完成(?)されない。
「純文学のように見えます」と書くことで、柴田は、抒情を破壊したつもりかもしれないけれど、私には抒情を大事に守っている、というふうに見える。悲鳴に聞こえる。悲鳴を保存する装置のように、短歌が見えてくる。
ほんとうは、柴田のことばは増幅はしていない。読者のことばを出発点として、自己を乗り越えるという方向へは運動をしていっていない。ことばを探し求めているけれど、そのことばは、散文によって破壊され、虚無に落ちていくことばを抒情の網ですくい取っているのである。
ロープをつかったセックスが出てくるが、そこに描かれているのは「装置」であって、「肉体」ではない。「肉体」ではないから、もちろん感情でもない。肉体から切り離された「装置」--「装置」だけが、柴田の肉体の外へ出てしまっていて、柴田自身は自分の「枠」のなかに閉じこもっている。孤独にふるえている。「装置」は虚無のように、柴田を他者から切り離す。どんなに「装置」をつかおうと、それは他者の延長でも、柴田自身の延長でもない。それは単に二人を切り離す存在である。切り離された人間の間ではセックスは存在しない。したがって、エクスタシーは存在しない。
この詩集にあるのは「散文」の精神ではなく、抒情の悲鳴である、とふたたび思う。
*
私には、この詩集は柴田のことばの本質とは違ったものではないか、という気がしてしようがない。柴田は基本的に「散文」の人間ではない。散文によって傷つく人間である。散文によって傷つく前に、自分で散文をつかって傷をつけてみた--自傷の詩、として読んだ方がいいのかもしれない。たぶん、自傷の詩として読めば違った風景が見えてくる。痛みと悲鳴がもっとせつせつと響いてくるかもしれない。
私は読み方を間違えたのかもしれない。
散文--と書いたついでに補記しておくと、散文精神をもっている詩人には、高岡淳四がきる。田中庸介がいる。この二人は正直という点でも共通している。正直とは、あることを語ることによって自分が自分でなくなってしまってもかまわないと決断して、対象を受け入れること、対象に向かって自己をつくりかえていくことである。自己を放棄して世界になることである。正直が精神にとってのエクスタシーなのである。正直が散文にとってのエクスタシーなのである。
柴田の2000年発行の詩集『空室』を読んだ読者からメールが届く。そのメールに誘われるようにことばが動いていく。現実ではなく、ことばが詩を動かしていく詩である。もちろんことばも現実である。ことばだけが現実になりかわっていく。すべては消去され、ことばが呼び込んだことばだけが増幅し、ことば、ことば、ことば、とことばがさらにことばを探しはじめる。
詩の途中に短歌(?)が挿入される。それは増幅することばに耐えかねたことばの悲鳴のように聞こえる。美しい悲鳴というものもあるかもしれないが、ここでは、増幅することばで窒息しそうになることばが、やっと息をしているという感じである。どういうことばが悲鳴をあげるかといえば、論理、精神の抒情が悲鳴を上げているのである。抒情といっても、そこにはほんとうは抒情はない。五・七・五・七・七というリズムの、リズム論理のもっている抒情である。五・七・五・七・七というリズムなら、抒情的な悲鳴が生き延びられるはずという「論理」の夢である。願望である。願望が、悲鳴になって残っている。
なぜ、そんなふうにして、ことばの悲鳴を残したいのか。
たぶん、柴田が受け取ったというメールと関係する。メールに書かれていることばと関係する。
あなあなあなあなたのセックスは、益々散文的になってきているはずです。
メールを書いた「セラフィタ氏」は「散文」をどう定義しているかわからない。しかし、柴田は「散文」について柴田は次のように定義している。
散文的なセックスとは おそらく果てしない欲情のことだろう
なぜ散文は果てしないか。それは散文というものは、あることばを出発点にして、どこへゆくかわからないまま変化して行くのもだからである。散文の目的はただ出発点を超えることだけである。出発点を超え、中間点を超え、到達点を超え、その向こうへ行ってしまう。エクスタシー。到達し、その到達を超えて、自己の外へ出てしまう。それはたしかに散文の仕事であり、それはセックスと重なり合う。
柴田は、いわば読者のことばを出発点として、読者の定義そのものを超越しようとしている。そういう試みはたしかに「散文的」である。散文でしかできない。
ただし、実際に柴田のセックスがというか、柴田のことばが、自己の外へ出ていってしまっているかというと、私には、疑問に思える。自己を超越し、自己の外へ出ていこうという意図は感じるけれど、どうも自分の「枠」というものを求めて、内部をさまよっている感じがする。
挿入される短歌が、そのさまよいである。感情を、抒情をひきつれて、自己の外へでたいのだ。感情を守りたいのだ。書くことでたたき壊す感情というものもあるだろうけれど、柴田はここでは柴田の感情をたたき壊してはいない。たたき壊して、その外へと出ようとはしていない。少なくとも私には、柴田の短歌は、そんなふうに読める。そんなふうに響いてくる。
薄明にハーゲンダッツの看板が純文学のように見えます
詩集のなかでは、この短歌が私は一番好きだ。「薄明」と「ハーゲンダッツ」が頭韻を踏んで美しい。抒情はここでは「純文学」と呼ばれている。その関係も美しい。生き残っている感情の小ささが美しい。
しかし、これでは散文的セックスはとうてい完成(?)されない。
「純文学のように見えます」と書くことで、柴田は、抒情を破壊したつもりかもしれないけれど、私には抒情を大事に守っている、というふうに見える。悲鳴に聞こえる。悲鳴を保存する装置のように、短歌が見えてくる。
ほんとうは、柴田のことばは増幅はしていない。読者のことばを出発点として、自己を乗り越えるという方向へは運動をしていっていない。ことばを探し求めているけれど、そのことばは、散文によって破壊され、虚無に落ちていくことばを抒情の網ですくい取っているのである。
ロープをつかったセックスが出てくるが、そこに描かれているのは「装置」であって、「肉体」ではない。「肉体」ではないから、もちろん感情でもない。肉体から切り離された「装置」--「装置」だけが、柴田の肉体の外へ出てしまっていて、柴田自身は自分の「枠」のなかに閉じこもっている。孤独にふるえている。「装置」は虚無のように、柴田を他者から切り離す。どんなに「装置」をつかおうと、それは他者の延長でも、柴田自身の延長でもない。それは単に二人を切り離す存在である。切り離された人間の間ではセックスは存在しない。したがって、エクスタシーは存在しない。
この詩集にあるのは「散文」の精神ではなく、抒情の悲鳴である、とふたたび思う。
*
私には、この詩集は柴田のことばの本質とは違ったものではないか、という気がしてしようがない。柴田は基本的に「散文」の人間ではない。散文によって傷つく人間である。散文によって傷つく前に、自分で散文をつかって傷をつけてみた--自傷の詩、として読んだ方がいいのかもしれない。たぶん、自傷の詩として読めば違った風景が見えてくる。痛みと悲鳴がもっとせつせつと響いてくるかもしれない。
私は読み方を間違えたのかもしれない。
散文--と書いたついでに補記しておくと、散文精神をもっている詩人には、高岡淳四がきる。田中庸介がいる。この二人は正直という点でも共通している。正直とは、あることを語ることによって自分が自分でなくなってしまってもかまわないと決断して、対象を受け入れること、対象に向かって自己をつくりかえていくことである。自己を放棄して世界になることである。正直が精神にとってのエクスタシーなのである。正直が散文にとってのエクスタシーなのである。
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