詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「食卓の眠たさ」ほか

2008-05-12 08:27:13 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「食卓の眠たさ」ほか(「白黒目」11、2008年05月発行)
 世の中には嘘のつけない人間がいる。豊原清明がそのひとりである。嘘がつけない、というのは「正直」というのと少し違う。「正直」には抑制がある。逸脱しそうになる瞬間の前できっぱりと立ち止まり、ほかに選択肢はないかと熟慮する。「嘘をつかない」というのは、そういう選択をしない。逸脱して行く。逸脱することで自分自身を解放して行く。豊原のことばを読むと、そういう思いがする。
 「食卓の眠たさ」の1連目。

うなずきながら父の愚痴をきき
白い空の自由ってものを
求めながら、生かされていることに
辛さを感じる、ああ!!
胸が、足が、しりが 疼く

 「生かされていることに/辛さを感じる、」というのは、精神の問題である。父との対話(愚痴をきく)のなかで豊原は「辛さ」を感じている。その「辛さ」というのは精神の問題である。その精神の問題から、豊原は軽々と肉体へ逸脱する。

胸が、足が、しりが 疼く

 辛さには確かに肉体的な辛さもある。愚痴をだまって聞いているのは精神的に辛いし、肉体的にも辛い。しかし、普通は精神的辛さについて真剣に考えれば、肉体的辛さは薄れる。精神的な苦悩は深くなる。そして、その結果極端な場合は、こんなに精神的に辛いならいっそう肉体を放棄することで精神的苦悩から逃れたい--自殺、という願望が生まれたりする。この自殺願望も一種の逸脱であるが、豊原はそういう逸脱はしない。
 軽やかに、肉体の力の方に逸脱する。

胸が、足が、しりが 疼く

 人間の辛さとはそれくらいのものである、と言えば、たぶん語弊がある。しかし、そんなふうに逸脱することで、自分自身を解放する--そこに、不思議な「笑い」がある。あ、こんなふうに感じていいのだ、という安心感がある。
 愚痴を聞いているのは辛い。その精神的な辛い瞬間から、こんなふうに肉体のリアリティーに逸脱し、逃れて行くことで、精神を解放していいのだ。
 誰もが、もしかすると、無意識にやっていることかもしれない。無意識にやっていることなので、それをことばにはしないだけのことかもしれない。しかし、その誰もやっていないこと、ことばにするということを豊原は実行に移す。その瞬間に詩が生まれる。肉体を持ったユーモアが、それまでの「空気」を破って、ことばが(精神が)自由に動き回れるようにする。
 この瞬間が、とてもいい。
 詩はつづいて行く。

差別されてもいいではないか
うとまれてもいいではないか
彼女にはもう爪も蜘蛛の糸も唾も
届かなくなったのだから。

彼女を失ったことで
いっそのこと死にたいと思っても
太っているから死ねないし
太っているから
きらわれる
木の下に、立つ
そして、時間ばかりが通りすぎて
母も父も時雨れて
僕は眠たくなった

 最後の「僕は眠たくなった」という行の登場にも、私は、健康な肉体を感じる。肉体があることの喜びを感じる。

 豊原のことばには嘘がない。嘘をついている余裕(?)がない。そういう余裕を与えないほど、肉体がエネルギーに満ちている、ということなのかもしれない。



 豊原は俳句も書いている。その俳句も不思議な味がある。

冬深し乱読を産む野の灯り

春の山力ずくでも山であれ

ぜつぼうと打ち合いて春の鹿

黒人霊歌トランペットに春がある

 存在と向き合う肉体。そのときの平然とした感じ。そこに命があることを受け入れている、というか、共感している。対象と一体になっている感じがいい。それはたとえば、

ぜつぼうと打ち合いて春の鹿

の場合、鹿と豊原が一体になっている、共感しているという感じではなく、「ぜつぼう」と「鹿」が溶け合って、その溶け合った世界と豊原が対等に向き合うことで一体になっているという感じである。豊原は「鹿」であるだけではなく、「ぜつぼう」でもある。そして、「ぜつぼう」も「鹿」も豊原も、それぞれ独立している。一体になっているのに独立している。
 その呼吸が、私はとても好きだ。



夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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