佐土原夏江『たんぽぽのはな』(2)(編集工房ノア、2008年05月01日発行)
佐土原夏江のしっかりした視力は存在しないものをくっきりと見えるように浮き彫りにする。その視力はほんとうに美しい。「日曜日」の全行。
最後の1行は、単にひとのいないブランコを描写しているのではない。そこに存在しうる(つまり、いまは存在していない)誰かをしっかり見ている。見えている。そこに誰かがいれば、男の子の一人遊びは違ってくる。いきいきと光り輝くはずである。その姿を佐土原の視力は思い描く。
そういうくっきりした姿、姿だけではなく、笑い声まで聞き取ってしまう視力があるからこそ、日曜日、ひとり残された男の子のさびしさを抱きしめることができる。
「秋空が広がった」「人待ち顔」「爽やかな風」。どれも、詩の行としてはそっけないかもしれない。たぶん、このそっけなさが「現代詩」には受け入れられないだろう。だが、そのそっけないことばが「ブランコがもう一つ空いているよ」の「もう一つ」を浮かび上がらせる。「呼びかけている/ブランコがもう一つ空いているよ」の倒置法を、とても自然なものにしている。
そして、
この2行の、「よ」で始まり、「よ」で終わる音の美しさ。思わず何度も何度も読み返してしまう。
*
不在のものをみる視力。それは矛盾するようではあけれど、不在のものなど何一つない、すべては存在する(存在しうる)のだとつげる。「日曜日」のブランコ、「もう一つ空いている」ブランコを揺らすこどもはどこかにいる。今、そこにこどもがないとしたら、それは人間が(大人が)そのこどもを隠しているからである。日曜日、公園で、ブランコで、砂場で遊ぶ喜びから、大人がこどもを奪いさって、どこかへ隠してしまっているからである。ほんとうは、こどもたちは存在するのだ。
そういうことは、個人の、つまり佐土原自身の肉体でも起きている。そして、そのことを佐土原はしっかりと見ている。「いまの私が好き」の全行。
過去はいまここにはない。それは佐土原が無意識に隠してしまっている。隠して、ということばは語弊があるかもしれない。しまいこんでしまっている。しかし、それはけっしてなくなるものではない。いま、見えないだけであって、じーっと目を凝らせば見えてくる。見えてくるだけではなく、そういうものがもしなかったとしたら「いま」という時間、「いま」の「わたし」も存在しないのである。
それを佐土原は「思い出す」とは書いていない。「呼んでくれる」と書く。ここに不思議な正直さがある。温かさがある。自力ではなく、他力。そして、それに感謝する正直さがある。この「ありがとう」の気持ちから、佐土原の愛がはじまっていることがよくわかる詩である。
「ありがとう」という気持ちに育てられた愛と、ありがとうと愛を結ぶ視力が佐土原のみる世界を、おちついた美しいものにしている。
佐土原夏江のしっかりした視力は存在しないものをくっきりと見えるように浮き彫りにする。その視力はほんとうに美しい。「日曜日」の全行。
秋空が広がった
朝から自家用車で
隣の家族が出かけていく
公園の
砂場やすべり台が人待ち顔
ブランコにぶらさがっている男の子がひとり
爽やかな風が木の葉を揺らして
呼びかけている
ブランコがもう一つ空いているよ
最後の1行は、単にひとのいないブランコを描写しているのではない。そこに存在しうる(つまり、いまは存在していない)誰かをしっかり見ている。見えている。そこに誰かがいれば、男の子の一人遊びは違ってくる。いきいきと光り輝くはずである。その姿を佐土原の視力は思い描く。
そういうくっきりした姿、姿だけではなく、笑い声まで聞き取ってしまう視力があるからこそ、日曜日、ひとり残された男の子のさびしさを抱きしめることができる。
「秋空が広がった」「人待ち顔」「爽やかな風」。どれも、詩の行としてはそっけないかもしれない。たぶん、このそっけなさが「現代詩」には受け入れられないだろう。だが、そのそっけないことばが「ブランコがもう一つ空いているよ」の「もう一つ」を浮かび上がらせる。「呼びかけている/ブランコがもう一つ空いているよ」の倒置法を、とても自然なものにしている。
そして、
呼びかけている
ブランコがもう一つ空いているよ
この2行の、「よ」で始まり、「よ」で終わる音の美しさ。思わず何度も何度も読み返してしまう。
*
不在のものをみる視力。それは矛盾するようではあけれど、不在のものなど何一つない、すべては存在する(存在しうる)のだとつげる。「日曜日」のブランコ、「もう一つ空いている」ブランコを揺らすこどもはどこかにいる。今、そこにこどもがないとしたら、それは人間が(大人が)そのこどもを隠しているからである。日曜日、公園で、ブランコで、砂場で遊ぶ喜びから、大人がこどもを奪いさって、どこかへ隠してしまっているからである。ほんとうは、こどもたちは存在するのだ。
そういうことは、個人の、つまり佐土原自身の肉体でも起きている。そして、そのことを佐土原はしっかりと見ている。「いまの私が好き」の全行。
おいてきたもの
すててきたものが
眠りを覚ます夜がある
それら
一つひとつを掬いあげ
あたためてはほぐしてみる
過去のすべてから
私が作られている
ときに呼んでくれるんだと
気づかされる
過去はいまここにはない。それは佐土原が無意識に隠してしまっている。隠して、ということばは語弊があるかもしれない。しまいこんでしまっている。しかし、それはけっしてなくなるものではない。いま、見えないだけであって、じーっと目を凝らせば見えてくる。見えてくるだけではなく、そういうものがもしなかったとしたら「いま」という時間、「いま」の「わたし」も存在しないのである。
それを佐土原は「思い出す」とは書いていない。「呼んでくれる」と書く。ここに不思議な正直さがある。温かさがある。自力ではなく、他力。そして、それに感謝する正直さがある。この「ありがとう」の気持ちから、佐土原の愛がはじまっていることがよくわかる詩である。
「ありがとう」という気持ちに育てられた愛と、ありがとうと愛を結ぶ視力が佐土原のみる世界を、おちついた美しいものにしている。